先っちょマンブログ

最近は、よほどのニュースでない限り、ニュースを見てどうとも思わなくなった。

子供が誰かを殺すのは当たり前の世の中になったし、子供がタバコを吸う感覚で大麻を吸うのも当たり前。冤罪事件でハメられて人生棒に振るのも日常茶飯事だし、親に冷たくされたという理由で通り魔をするヤツもそこら中にいる。
車で人を撥ね、ばれたくない一心で、被害者を引きずったまま逃げるのもよくあるし、女が金目当てで男を殺しまくるもの普通だ。

だが、子供の虐待のニュースだけは琴線に触れるというか、可哀想に思えて仕方がない。ここ数日、親が奈良と埼玉で子供に食事を与えず、餓死させるという痛ましい事件が連続して起こったが、これは本当に可哀想と言うほかない。

自活能力のない幼い子供は、親に頼って生きていかねばならないのいうのに、その親に見捨てられて、疎まれ、憎まれながら生きていかねばならないというのは、悲劇というほかない。親に虐待されながら生きる子供が味わう絶望感は、まさに生き地獄といったところだろう。

そういう子供たちは、一体何のためにこの世の中に生まれてきたんだろうと思う。親に食事を与えられず餓死した子供は、楽しかった記憶なんてなかったに違いない。親に叩かれて怯え、死を感じるような空腹を味わい、苦痛でしかない人生なんて何の意味もない。

宗教家であれば、それでも生まれてきたことに意義があると言うのかも知れないが、そんな仕打ちを親から受けるのであれば、子供なのに楽しいことがひとつもないのであれば、生まれてこなかった方がよかったのではないかと思わずにはいられない。

母親にアパートに置き去りにされ、1歳の弟が餓死し、4歳の男の子が部屋の中に散乱しているゴミを食べて飢えをしのいでいたという事件があった。その4歳の男の子は、1か月の放置後に恐る恐るアパートに戻ってきた母親の帰宅を喜び、母親に抱きついた。
しかし、母親は子からの愛を受け止めず、死んだ1歳の弟の腐乱死体を段ボール箱に入れて持ち去り、4歳の男の子を再び置き去りにした。

子は親を盲目的に愛するが、親は必ずしもそうではない。
奈良で起こった虐待死事件では、不仲の夫に似ているという理由で長男が虐待された。埼玉の虐待死事件も同様に、「愛情がわかない」、「可愛くない」という理由である。

子供を愛せないという歪んだ感情を持つのは勝手だが、子供が嫌いになっても、子供を育てる義務が親にはある。せめて子供をよそに預けるなどして、虐待を繰り返したり、挙げ句の果てに殺してしまうようなことは避けなければならない。

誰にも助けて貰えない子供の心境を慮れば、普通の人間であれば何とかするもんだが、血の繋がった子供にしても、連れ子にしても、子供の苦しみを全く理解せず、殺してしまう親なんぞ、生きている資格はないし、その価値もない。

しかし、そんな人間がそこら中にうじゃうじゃいる。これはもう、驚くべきことであると言うほかない。

 

このイザでブログを始めて3年9か月になる。イザのベータ版サービスが始まってからなのだが、自分でもよく続いていると思う。
始めた当初は変なヤツにからまれたりしてウンザリしたが、今はそこそこ見に来てくれる人も多くなったし、それが励みになって続けられている。

ただ、正直自分でもネタ切れ感がある。書くことがだんだんと少なくなってきた。

私は極力同じことを書くのは避けたいのだが、どうしても同じことを書かざるを得ない状況になりつつある。
例えば、中国や韓国のむちゃくちゃな歴史認識などはずっと変わらないのだから、それを批判しようと思ったら、どうしても同じことを事実として書かざるを得ない。

嫌韓とか嫌中をテーマにして、韓国人や中国人がいかに酷いかを書いたり、小馬鹿にするブログがあるが、延々と同じようなことをばかりを書いていてよく飽きないものだと逆に感心してしまう。
韓国人の嫌なところを書いて、馬鹿にして、チョンコロ呼ばわりすることを毎日続けられるという忍耐力はある意味すごい。

私なら、ひとつのテーマのことをずっと書き続けることは多分無理だ。

以前、ペットのことについてのブログをやっていたが、すぐに飽きてしまった。
どうでもいいような、内容のない写真だけを掲載するのなら簡単かも知れないが、どうもそれは私の中の何かが許さない。ところが、犬や猫を飼っていても、そうそう毎日変化など起こらないから、書くことがすぐになくなった。

その後、猫が事故で死んでしまったのもあるが、書くことがないからすぐにやめてしまった。

その点、イザはニュースに関してブログを書けるので、ネタは豊富だ。コラムだけ書いていてもすぐにネタ切れになるが、ニュースについて書くなら、テーマは無限にあると言ってもいいかも知れない。

だから毎日ネタ探し。ニュースを見るなり読むなりして、いつも「ブログで書くならどう書こう」と考えるブログ脳になってしまった。
これが割と疲れる。

最近、ブログからツイッターに乗り換える人が多いみたいだが、それも頷ける。ツイッターなら適当につぶやくだけだから、ブログに書くよりも敷居が低く、気軽に書ける。
ただ、ツイッターは常にネットに繋いでささっと書ける環境がある人向けだ。私のようにネットに常時接続できるようなモバイルデバイスを持っておらず、仕事がクソ忙しい人間には向かない。

これからも、飽きるまでブログでせこせことものを書く方が自分にはよさそうだ。
 

 

今日の朝日新聞1面トップは、与党から浮上している、大型連休の分散化を行うための祝日法改正案についての記事だった。
朝に「ズームイン!!SUPER」の関西ローカルコーナーで、アナウンサーが「ある地域の営業だけ休み、他はやるとか、どうやるんでしょうねぇ」などと言っていた。
会社員なら誰もが思うことだ。

民主党の連中は、日本を5つのブロックに区切り、そのブロックごとに5月の大型連休を取るようにすれば、連休の混雑は経るし、経済効果も増えるし、いいことずくめだと言っているらしいが、そんなもんはマトモに仕事をしたことがない議員のセンセイだから言えることなんだろう。
アホすぎて話にならん。

まず仕事と別にして考えてみるが、連休に親戚で集まるというのは普通にある話だ。
うちの場合、嫁さんのお母さんが2年前の5月の連休明けに亡くなったので、昨年の一周忌は嫁さん方の親族が楽に集まれたし、私だって連休を利用して参加できた。今年の三回忌だってできるだろう。

ところが、ブロックごとの連休になったらそうは行かない。三回忌のことはどうでもいいが、嫁さんの実家に行ったところで、義父は仕事に行って家にいないとかありえないだろう。それだったら、何のために嫁さんと嫁さんの実家に行くのか分からない。

仕事で考えたら、不都合がたくさんあるのは容易に想像できる。
私は製品開発などを行う技術の仕事をしているわけだが、客から問い合わせが来て、技術的な内容だったらサポートセンターから対応を依頼され、調べたり、直接答えたりする必要がある。

うちの会社では大阪に技術が一極集中しているのだが、もしこれで大型連休が分散してしまった場合、大阪の技術全員が休みを取れなくなる。当然、関西方面が休みの間、他の地域では普通に仕事が行われているため、誰かが技術問い合わせの対応のために出勤せねばならないという事態が起こる。

これまで通りの連休であれば、「4月の終わり頃から連休明けまでサポート業務は休みです」のアナウンスだけで済むが、連休がブロックごとになるとそうはいかない。
それで技術の連中が別々に休みを取ると、別々に休んだヤツの穴埋めも大変だから、もう考えるだけで鬱陶しい。

大型連休の分散案は、ヨーロッパのマネをしたがるミーハーのアホ議員の思いつきだろう。思いつきを口にして部下を振り回すアホな上司は死んでくれと思うわけだが、思いつきで国民を振り回す与党の議員連中も死んでくれたらいい。

 

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