先っちょマンブログ

20150611-1

少し前に、AmazonのKindleストアで電子書籍のポイント還元セールをやっていた。小説や漫画など多くの電子書籍が、販売価格の50%をポイントで還元されるようになっていた。
キャンペーン中に、桜玉吉という漫画家の漫画を購入した。桜玉吉は自分の身の回りの日常を漫画にする漫画家で、エッセイ漫画家の先駆けのような人だが、長らく鬱病を患って漫画を描けない状態になっていた。
復活を諦めていたのだが、いつの間にか新刊が出ていたのでKindleストアで迷わず購入した。

それを読んでみると、鬱で仕事が手につかず、貯金も底をつき、集めていたフィギュアやレコードなどをヤフオクに出して糊口を凌いでいたらしかったが、東日本大震災を契機に外に出られるようになり、徐々に漫画も描けるようになったのだという。
最近、小説家の柳美里も鬱になって酷い貧乏に困っていると告白していたが、漫画家や小説家が鬱になると大変そうである。

桜玉吉の場合、「月刊コミックビーム」で連載していた「御緩漫玉日記」の頃から元々患っていた鬱が急激に悪化していき、次第に作画が崩壊して、内容もすごいことになっていった。「別人格の自分が漫画を描くことがある」と主張するようになり、漫画の原稿を全部消してしまうこともあったのだという。

こんな状態の漫画家を支えたのが「月刊コミックビーム」の奥村勝彦という編集長だ。旧知の友人とはいえ、鬱全開で漫画の打ち切りが決まってからもできる範囲での仕事を与え、桜玉吉が鬱から回復するのを看取り、回復後も不定期連載という形で復活させた。

「御緩漫玉日記」でひとりの漫画家が鬱で崩壊していく過程を少しずつ読んでいくのは本当に辛かった。桜玉吉が好きからという理由からでなく、私も鬱を経験しており、おかしくなっていく様子が自分を不安にさせるからである。
私の場合は桜玉吉のような重度の鬱ではなく軽度の鬱で、過換気症候群や予期不安を催す不安症という症状から来るパニック障害だった。

鬱のさわりを体験したようなもんだが、それでも鬱がどんなものなのか想像できるようになったし、そのおかげで鬱の苦しみも大体分かるようになった。だから、まるで転げ落ちるように鬱病の渦の中に巻き込まれていく漫画家のようすが描かれた漫画を読むのがしんどく感じたのだ。

そんなことがあったので、人の悩みや苦しみなんぞは実際に体験してみないと分からないということが痛いほど理解できた。
世の中には家族のことや病気のことで深く悩んだり、苦しんでいる人が大勢いるが、その人たちの気持ちなど簡単に理解できるわけがない。癌患者の苦しみは、癌になってみないと分からないだろう。

ほかにも同じようなことが言えて、例えばイジメを受けている子供がどれだけ悩んだり苦しだりしているかは、私はイジメを受けたことがなかったので分からないし、理解できるとも思えない。イジメに悩んですぐに自殺してしまう子供がいるが、それをイジメを受けたことがない大人があれこれ考察しても分かるわけがないと思う。

だから、イジメをする側に「イジメられる子の身になってみろ」などという説教をしたところで、子供が理解できるわけないのだ。イジメをしている方がイジメを受けている方がどう思っているかなど想像できるわけがない。

それでも、人間であれば相手がどう思うかを考えるように努め、極力相手に嫌な思いをさせないようにするものであるが、それができないヤツが世の中にはたくさんいる。
人種差別とか宗教差別とかがなくならないのも当然のことのように思える。
世の中の多くの人は、人の痛みなぞ知らないし、どう思われるかなど気にしないのだ。逆の立場になってみて、初めてそれに気が付くのかも知れない。

昨年、エボラ出血熱がアフリカで爆発的に広まって世界的な騒動になったとき、アフリカから遠く離れた韓国でもエボラ禍ともいえるような騒動がいろいろ起きていた。
そのなかでも象徴的だったのが、釜山の国際会議に出席する予定だったリベリア、ギニア、シエラレオネの3か国に韓国が参加自粛を要請し、その3か国が参加を中止せざるを得ない状況に追い込まれた。

ソウルで開かれた国際会議に参加予定だったナイジェリアの女子学生3人がナイジェリア国籍というだけで検疫などを受けたにも関わらず入国を拒否された。彼女らは「国連人権委員会に提訴する」と怒り心頭だった。

それ以外にも、ソウルでエボラ出血熱流行という理由でアフリカ系黒人の入店を拒否する飲食店が出てくるなど、どう考えてもアフリカの黒人差別にしか見えない対応を韓国はしていた。
そのことが国際的な問題になっても、韓国は「アフリカからエボラ出血熱が入ってきたら誰が責任を取るのか」と自らを正当化し、無知から来る対応が問題ないと強弁していた。
アフリカ系黒人というだけで、エボラ出血熱のキャリアであるかのように見なし、バイ菌扱いされた人たちがどう思うかなど想像できないし、考えもしないのだ。

それが今になって、立場がまったく逆転してしまった。
MERS(中東呼吸器症候群)が大流行し、今やこれまで患者数がもっとも多かったサウジアラビアよりもMERS患者が増えてしまうほどになってしまった韓国が、これまで自分たちが空港などでやって来た他国の人間をバイ菌扱いする行為を逆にやられるようになってしまった。
中国の空港で検疫が強化され、韓国人全員が防護服を着た職員らに取り調べられたことについて、韓国が「差別的だ」と怒っている。

自分たちが散々やってきたくせに、どの口でそれを言うのかと思うわけだが、不躾で差別的対応を取られればどう思うか理解できるようになっただろうか。
かの国は自分たちは無謬の存在で、他国が間違っていると思いがちなので、今回も「中国は未開な国だから」などのひと言で済まされ、何も変わらない可能性の方が高いと思う。

20150610-1

神戸の連続児童殺傷事件が社会に及ぼした影響は大きかった。14歳の少年が小学児童2名を殺害、3名に重軽傷を負わせた上、少年の残虐性、性的倒錯、警察やマスコミに対しての声明文送付など劇場型犯罪の典型だった。しかも、ありきたりな事件ではなく、これまでなかったような事件だったから、大きな影響を与えたのも当然だった。

この事件により、少年法の刑罰の対象年齢が16歳から14歳に引き下げられるなどしたが、個人的にはホラー映画や暴力的な漫画などへの規制が強まったことが非常に迷惑だった。
児童殺害事件発生から少年逮捕に至るまでの1か月ほどの間に、米ホラー映画の「スクリーム」が上映が始まる予定だったのだが延期されてしまった。犯人逮捕を受け、2か月後に公開されることになったが、逮捕された少年がホラー映画を多数鑑賞していたことから、ホラー映画がバッシングされることになった。

この事件以降、テレビでホラー映画を放送しなくなってしまった。昔は夜9時からの映画番組で「13日の金曜日」などをしょっちゅう放送していたが、今や放送は皆無である。
「13日の金曜日」シリーズなど、ホラー映画というよりもはやコメディ映画のように思えるが、スプラッターシーンがある映画は放送されなくなり、犯罪映画の残虐シーンはテレビ放送時に強引にカットされるようになってしまった。

現在の日本のテレビゲーム業界における厳しすぎる暴力規制も、元をたどれば連続児童殺傷事件に繋がるのだろう。
日本のサブカルを規制だらけにした"少年A"にムカついた気持ちは今でも変わらない。

そんな"少年A"がなんと今日になって事件のことについて綴った手記「絶歌」(太田出版)を明日11日に出版するのだという。
性的興奮による殺人衝動などを語り、少年院を借りたいインしてからは日雇いのアルバイトなどで糊口を凌いでいるなどとあるらしい。

手記を出版した太田出版の社長は、「男性が書いた手記を見て、事件前後の彼の心境について、社会がもっと知るべきだと思ったので出版を決めた」などともっともらしいことを言っているが、実際は社会的なセンセーションをもう一度巻き起こし、本を売ろうという魂胆が最初にあるのは見え見えだ。
どう考えても遺族が反撥することが分かっていて、実際に、殺害された男子児童の父親が出版中止や本の回収を求めるコメントを発表したが、出版社にとっては遺族のことなどどうでもいいのだろう。

私はいろいろな殺人事件のルポを読むのが好きで、連続児童殺傷事件は非常に興味深いが、犯人自身が自分のことを手記にして出す本に価値があるかは疑問だ。

残虐事件を引き起こした少年は、性的な衝動が動機であることは少なくない。特に、性への目覚めが遅い少年は性の対象が異性に向かうのではなく、生物の生死に向かうことが多くなるらしい。
この"少年A"も例外ではなく、男子児童を給水タンクのある小高い丘で殺害し、翌日に男子児童の首を切断するときに、性的興奮のあまり射精したのだという。

このような性的倒錯から来るような性犯罪者ともいえるヤツは、刑務所や少年院に入っても往々にして更生せず、同じような犯罪を繰り返すことが多い。
"少年A"も少年院で暴力行為や奇行を何度か起こしている。

早い話が、"少年A"は責任能力があるキチガイなのである。このような性的犯罪を犯す殺人者に更生の見込みがあるとも思えず、また、そんなヤツが正しく自己分析できるわけがない。
だから、"少年A"の手記は事件を知る上でどこまで参考になるかは甚だ疑問だ。自分で勝手に振り返り、自分の都合のいいように書いているだけかも知れない。
出版社の社長が言う「社会がもっと知るべきこと」があるとしたら、第三者による事件および犯人の分析であり、"少年A"に対してはインタビューを行ってその内容を記す程度でよかった。

なにより、このような手記が出版され、それが売れることで日雇いのアルバイトで細々と生活している"少年A"に印税による収入が入り、遺族の気持ちを蔑ろにする出版社は儲かることになる。
いわば、子供を殺して金儲けするようなもので、こんなことは法律的には問題がなかったとしても、心情的には許されるべきことではない。

"少年A"の手記など、買ってはならない。

20150609-1

昨晩、雨が降るなかIngressをやるためにスマホ片手に歩いていた。午後7時頃だったので部活終わりの高校生が自転車に乗って帰宅していたのだが、少し前と様子が違うことに気がついた。
多くが傘をさしていなかったのだ。

この6月から改正道路交通法が施行され、自転車の傘さし運転が安全運転義務違反となり、3年以内に警察に2回捕まると警察で5700円支払って安全講習を受けなればならないようになった。3か月以内に講習を受けないと、5万円の罰金が課せられる。

恐らくそれがあるため、学校、あるいは部活で傘さし運転を禁止されたのだろう。ただ、雨合羽を持っていないか、持ってきていなかったため、制服のままずぶ濡れで自転車に乗っている生徒も多かった。
確かに傘さし運転では、傘を持っていないよりは安全ではないかも知れないが、取り締まりを受けるほどのものなのだろうか。
学校から指導され、傘をささずにずぶ濡れになっている生徒のうち、何人かは体調を崩して風邪をひくかも知れない。そうなると、安全運転義務違反とは何なのかと思わざるを得ない。

「安全に運転していない」と見なされれば取り締まりされるわけだが、イヤホンで音楽を聴くのはダメはしょうがないとして、音楽を聴いていなくてもイヤホンをしているだけでもダメらしい。イヤホンをしている状態が、周囲の音を聞き取りにくくしているから安全運転義務に違反しているということらしい。
だとしたら、冬に耳あてをしている女子や、ニット帽を耳が隠れるくらい深く被ること、パーカーや雨合羽のフードを被ることも安全運転義務違反になるのか。

この自転車の安全運転義務違反とは本当にクセモノで、取り締まりを行う各都道府県の警察によって解釈が異なる。
片耳にイヤホンマイクをさしている場合、東京では取り締まりの対象で、神奈川では違うとされている。スマホをBluetoothのイヤホンマイクと接続し、いつでも電話を受けられるようにしたり、通話しながら自転車に乗ると捕まる可能性があるが、捕まらない場合もある。

ちなみに、車の場合もイヤホンマイクでのハンズフリー通話で捕まる地域と捕まらない地域がある。各都道府県の道路交通規則などによって違うらしいが、これはそれぞれの都道府県が禁止と設定しているからであって、法律の解釈によるものではない。

この改正道路交通法は、各都道府県の警察の解釈どころか、現場の警察官の解釈で取り締まり対象か否かが決まってしまう悪法のように思える。
自転車は車道脇の路側帯を走らないといけないが、場合によっては歩道を走っていいことになっている。殆どの場合は路側帯を走ったら危ないと想うのだが、歩道で少しでも歩行者の邪魔になる走行をしたと警察官が見なせば捕まる可能性がある。フラフラしながら車道を走っているジジイの自転車の方がよほど危険だと思うのだが。
イヤホンの解釈は都道府県によって分かれ、傘さしは禁止だが傘を固定する「さすべえ」はこれまた都道府県によって解釈が異なる。
とにかくグレーゾーンだらけである。

酒酔い運転や信号無視などは明確に違反だと規定されているが、それ以外の安全運転義務の解釈が人や団体によって幅が広すぎる。「スマホはダメ」、「イヤホンもこの条件ならダメ」と明確に規定できなかったのか。自転車に乗りながらやりそうなことなど決まっているだろう。
安全運転義務という幅広い解釈ができることにしておけば、

法律なんぞを解釈でどうにでも取れるようにして運用していこうというのが間違いなのかも知れない。あまりガチガチに規定しすぎると、想定外のことが起こったときに対処できないから、解釈でどうにかできるようにするものなのかも知れないが、いろんな解釈ができるから揉めることになる。

その代表が日本国憲法だろう。憲法9条があるわけだが、解釈によって自衛隊は軍隊ではなく合憲だとされている。普通に憲法9条を読めば戦力を保持しないとあるのだから、自衛隊は違憲なような気がするが、他国を攻める戦力じゃないから問題ないことになっている。
今、国会で盛り上がっている集団的自衛権についても、自民党が連れてきた憲法学者ですら違憲だとしているのだから、違憲なのだろう。安倍首相はアメリカ遊説時にオバマ大統領に今国会で成立させると大見得を切った手前、必死になって弁明しているが、どうも苦しい言い訳になっている。

私は自衛隊も集団的自衛権も反対ではない。ただ、憲法解釈でやり過ごそうとするから、ごちゃごちゃと言われることになる。
今日も、共産党員の連中が集団的自衛権を批判するアジ演説とビラ配りを会社の最寄り駅でしていた。「違憲であることを憲法解釈で押し通そうとするのが間違い」と言っていたが、確かにそれは一理ある。
だとしたら、やはり憲法を変えてしまうしかない。集団的自衛権行使を認め、アメリカにいい顔したいのならそんな悠長なことを言っていられないのかも知れないが、憲法でいろいろ解釈できるのが根本的な問題なのだ。

だから、9条なんぞさっさと変えて、自衛隊を紛れもなく合憲の自衛軍にしたり、集団的自衛権を認めるよう明記すればいい。
安倍首相の悲願である憲法改正をやるにしても、9条改正は遠い未来なのかも知れないが、それでもそちらからやるのが正しいように思える。急がば回れというではないか。

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