20141126-1

24日(月)、対馬を訪れていた韓国人4人が仏像などを盗んだ容疑で逮捕された。同日10時から14時の間に、対馬市美津島町の寺から市指定の有形文化財である仏像「誕生仏」や市指定の文化財である300冊を超える大般若経の経典を盗み、韓国に持ちだそうとしていたところ、通報を受けた警察官が市内の厳原港で男らに職務質問して逮捕に至ったという。

逮捕されたのは、いずれも職業は自称で、住職の金相鎬(70)、農業の金溶晃(54)、会社員の李哲佑(47)、警備員の安承喆(53)。
翌日になって、5人目の男としてカラオケ店経営の朴奉緒(42)も逮捕された。

韓国人による対馬での仏像盗難は、2012年の窃盗事件が記憶に新しい。長崎県指定の有形文化財である「観世音菩薩坐像」と、国指定の重要文化財「銅造如来立像」が盗難被害にあって韓国に持ちだされた。
窃盗犯は韓国で予め買い手を探すなど、金銭目的での窃盗であったにも関わらず、韓国に帰ってから「日本に奪われたものを奪い返してきた」と主張し、一躍愛国者として奉られるようになった。
韓国国内の世論を受け、2013年に韓国中部の大田地裁は「観世音菩薩坐像」について、日本側が朝鮮半島から盗んだものではないと証明しない限り返してはならないという驚きの判決を下した。

韓国は法治国家ではなく、人治国家である。司法は世論や大統領の意向によって流される。ユネスコの協約で盗難文化財は元の所有国に返さないといけないと決まっているにも関わらず、そんなことはお構いなし。日本側に対し、「何百年前に盗んだ品ではないことを証明しろ」と難癖を付けて終わり。
結局、「観世音菩薩坐像」も返還されておらず、対馬から盗まれて韓国に渡った2体の仏像は、日本に返されることのないまま韓国が所有し続けている。

韓国人観光客に頼らざるを得ない懐事情の苦しい対馬も、さすがにこの件で韓国を見限る人が増えたほか、そうでない人でも韓国人優遇ができない状態に陥った。

毎年開催されていた「厳原港まつり対馬アリラン祭」のメイン行事「朝鮮通信使行列」は2013年に中止になった。祭りの名称も、「アリラン」を取り除かれて「対馬厳原港まつり」に変更された。
それでも親韓の市民が多いのか、行事の再開を望む声が多く寄せられ、津島市は今年の実施を決定していたが、大雨で取りやめになった。
お天道様がそうはさせまいと阻止したのかも知れない。

今回、2度目の仏像盗難事件が発生し、さすがに対馬市でもさらなる嫌韓感情が沸き起こることだろう。島に韓国の国花であるムクゲを植えるなど傍若無人な振る舞いをしている韓国人であるが、日本を舐めきっており、またぞろ仏像を盗難し、韓国国内で売りさばこうとしていたのである。
ここまで侮辱され、それでもガマンできるという対馬市民がいるのであれば、よほど韓国に毒された観光業に携わる人間なのだろう。

日本国内で「ふざけんじゃねぇ」という声が多数上がったが、韓国国内ではこの盗難事件を諌める声もあるが、2年前と同じように「"略奪文化財"を取り戻そうとした英雄」という声が多数上がっている。
韓国では、「古来より韓国の領土である」というふざけた主張をする人間がいる。対馬は古事記や日本書紀の国産みで産まれたとされる島で、大昔から日本が認識する日本の領土であった。ただ場所柄、昔から対馬が朝鮮半島と交流が盛んだった。

対馬には130体を超える朝鮮由来の仏像があるが、これらすべてに対して韓国人は"略奪文化財"であると主張する。
シナの属国となり、シナの影響を強く受けたせいで仏教を蔑ろにし、仏像を捨てていた国が何を言うのか。

そのメチャクチャな主張にかこつけて、韓国人が金銭目当てで盗難した仏像を「略奪したものを取り返しただけ」と主張し、犯人は民族の英雄に奉られる。
ホント、お気楽で都合のいい考え方だ。

韓国人はなにか悪いことがあっても、すぐに日本のせいにすればいいから楽である。
放火によって消失した南大門(崇礼門)の復元工事で、装飾に早くも亀裂や退色が見られたことについて、「日本製の接着剤が粗悪品だった」と報道された。だが実際は、資金流用などの不正による手抜き工事が原因だった。

韓国人のこういうものの考え方は、同じDNAである在日韓国人にも当然受け継がれている。在日は就職や進学でうまくいかないと、すぐに「差別のせいだ」と主張する。実際、私が勤める会社の就職試験で、最終の社長面接で落とされた在日韓国人の国立大生が「差別だ」と喚き立てて大変だったことがあった。
会社には在日韓国人が朝鮮名のまま仕事をしているし、中国人も働いている。なにより、最終面接で落とした当時の社長は、中国から帰化した人間であった。

「自分たちのせいではない。すべては日本の責任だ」
韓国人はこれさえ言っておけば言い逃れができるのだから楽である。逆に、こればかり言っているから、いつまで経っても進歩がないのだ。