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産経新聞で今日から神風特攻隊に焦点を当てた「特攻」という特集の第2部が始まった。
1回目の今日は、昭和20年に沖縄近海で散った22歳の特攻隊員の話だった。

教員を目指していた長男が飛行兵になると言い出し、特攻隊員として送り出した母親が、昭和52年の33回忌で声を出して長男の名を呼び、泣き崩れたのだという。それまで国のために送り出した子供だったが、33回忌を機に自分の子供になったので、そこで初めて泣いたのだという。

特攻隊員として戦死したこの長男は中西伸一少尉という。中西少尉には6歳年下、16歳の親しい女性がいた。書店で出会い話をするうちに親しくなった。
戦後10年経った昭和30年にこの女性から連絡が来て、墓参りをしたいと申し出があった。当初は家族にもどういう関係だったのか明かさなかったが、数年経って自分が中尉に惚れていたと明かしたという。
戦地に向かう前の少尉に対し、「捕虜になってもいいから生き延びて」と思わず本心を口にしてしまったが、少尉は負け戦の無念さや国家の一大事に国民が殉ずる使命感などを説き、「自分だって死にたくはない」と漏らしたという。

女性は中西中尉と手紙のやり取りもしていたが、もう手紙を寄越さないでくれと連絡があったという。出撃が近いので手紙の返事が書けないことが理由だった。手紙の最後には「さようなら」と添えてあったという。

ときが過ぎて平成8年。鹿児島の知覧での慰霊祭に出席した中西中尉の弟が、その女性に兄の遺品を知覧特攻平和会館に寄贈すると伝えた。すると女性は一晩だけ軍服を貸してくれとお願いした。
翌日、目を真っ赤に腫らした女性が、弟の元へ軍服を返しに来た。弟はその女性が兄の軍服を抱き、泣きながら寝たのだと感じた。

まるで特攻と純愛をテーマにしたような話に、読んでいて胸が熱くなった。

今日の産経新聞のなかほどには、曽野綾子氏のコラム「透明な歳月の光」が掲載されていて、先日放送された長崎の原爆被害にあった少年を撮影した米軍カメラマンのドキュメンタリーのことが書かれていた。
曽野氏は「衛星テレビの番組」と書いていたが、おそらくCSのヒストリーチャンネルで放送された「原爆の夏 遠い日の少年」という2時間のドキュメンタリー番組だと思われる。これは2004年にTBSが制作し、総務大臣賞、日本民間放送連盟賞テレビ報道部門賞、文化庁芸術祭テレビ部門優秀賞などを受賞した作品だ。

このドキュメンタリーは、日本の敗戦後9月に海兵隊のカメラマンとして佐世保に来たジョー・オダネル軍曹の話だ。
オダネル氏は許可なく日本人を撮影してはいけないと軍から命令されていたが、それに背いて原爆被害のケロイド症状に苦しむ子供などを撮影していた。
そのなかでもっとも有名なのが「焼き場に立つ少年」と銘打たれた写真だ。

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幼い弟を背負って裸足で火葬場にやってきた少年が、直立不動で順番待ちをしている写真である。
実はこの弟は既に亡くなっており、少年は弟を火葬するためにやってきて、順番待ちしていたのだ。少年の両親は原爆被害で亡くなっていた。
少年は職員に弟を渡し、火葬される様子をじっと見ていたが、ぎゅっと噛みしめていた唇からは血が流れていたという。

オダネル氏は個人で密かに撮影した原爆被害の写真や日本人の写真を43年間封印してきたが、偶然立ち寄った修道院にあった反核運動の彫像を見て心を揺り動かされ、その封印を解いた。その彫像の表面には原爆被害に遭った人たちの写真が貼られていた。
オドネル氏は原爆が誤りであったことを示すため、自らが撮影した写真の展示会を開こうとするが、退役軍人などの強い反撥にあって思うようにアメリカの人々に知らしめることができなかった。

オダネル氏の家には「アメリカから出て行け」といった脅迫の手紙が届くようになり、夫の行動に理解を示さなかった妻とは離縁した。アメリカ全土から批判にさらされるなか、オダネル氏の娘が父を擁護する投稿があると教えてくれた。「オダネルを批判するヤツらは、原爆とはなんだったのか、なにをしたのか、図書館に行って歴史から勉強してから批判しろ」という内容であった。
その意見に感銘したオダネル氏が投稿者の名前を見ると、それは自分の息子だったという。

オダネル氏は生涯忘れられない記憶となった長崎の少年を探すため10年にわたって何度も来日し、地元紙も呼びかけたが少年の消息は掴めないまま亡くなってしまう。奇しくも長崎への原爆投下の日と同じ8月9日だった。
オダネル氏の息子は亡き父の意志を引き継ぎ、全米に向けて写真の公開に踏み切った。父と同じように批判が多く来るが、賛同する意見も増えてきたという。

未だにアメリカ人は「ソ連侵攻前に戦争を早期に集結させるため」、「アメリカ人のみならず、日本人の戦死者も少なくさせるため」という理由で原爆投下の正当性を主張している。
それらの効果はある程度あったのかも知れないが、実際は原爆の効果を確かめるために日本で人体実験を行ったに過ぎない。日本のサヨク連中もそれに呼応するかのように「日本がお灸を据えられた」と言わんばかりの主張をするが、原爆投下に正当性などありはしない。

それでもアメリカ人の考え方も変わりつつある。
世界でもっとも信頼されていると言われるトリップアドバイザーによる広島平和記念資料館は、「外国人に人気の日本の観光スポット」で2013年に1位、2014年には2位、今年も2位で、アメリカ人には1位なのだという。
資料館を訪れた外国人の多くは「Must see」(ぜひ見るべき)の評価を付ける。それぞれの評価はどうあれ、原爆がいかなるものだったかを知ろうとする姿勢は評価できる。

曽野綾子氏はコラムで戦後の日本人は至るところに毅然として運命に耐える日本人がいたと結んでいたが、原爆の惨状に触れ、あまりの悲惨さに長年記憶と記録を封印してしまうものの、やがてそれらを公開し、批判に晒されるオダネル氏もいた。
彼もまた、運命に耐えた人であった。

今日の産経新聞はいろいろ考えさせられた。