20171120-1

私は宇宙もののSF映画が非常に好きで、「インターステラー」(2014年・米)や「コンタクト」(1997年・米)が特に好みだ。どちらもハードSFに分類されるほどゴリゴリの科学を前面に出しているが、その一方で家族の結びつきなどスピリチュアルな部分も併せ持っていて、いい内容の映画だ。

「インターステラー」の内容を考案した映画プロデューサーと理論物理学者は、「コンタクト」の原作者であるカール・セーガンの紹介によって引き合わされた。カール・セーガンは天文学者にしてSF作家でもある、科学界の巨人ともいえる人物だ。

カール・セーガンは懐疑主義者でもあり、この世に溢れる霊魂といったオカルトに対する反論を著書で多く行っている。
それに近いことが「コンタクト」のなかでもあって、天文学者である主人公のエリーは徹底した実証主義で、存在が証明されない神は信じないとして無神論者として描かれている。
彼女は最終的に、異星人からメッセージを解読して得られた装置を使ってワームホールを移動し、26光年離れた星の異星人とコンタクトを取るが、その18時間は地球時間では僅か1秒であり、地球上の装置ではなにも起きているように見えなかった。
エリーは公聴会で宇宙空間を移動して異星人と接触した旨を主張するが、なんら物証がないことに妄想だと決めつけられ、実証主義である本人もそれを飲まざるを得なくなる。

証拠がないものは事実として認定し得ない。これは常識以外の何ものでもない。エリーは自分がいくら宇宙空間を移動したと主張したところで、その証拠がなければ自分の主張は認められないと分かっていた。証言は事実ではないのである。

それをよく分かっていない国がある。理屈が通じぬ国で、どこぞのババアを連れて来て日本を貶める証言をさせ、「証拠はこのおばあさんたちだ」と平然と口にする。記憶も証言も証拠とはなり得ぬことをまったく理解していない。

カール・セーガンは著書のなかで、証拠がないことを事実として主張する人たちを「ガレージのドラゴン」の話に例えていた。
ある人が自宅のガレージにドラゴンがいると主張する。ところがドラゴンの姿はない。当人に訊くと「ドラゴンは目に見えない」と言う。ならば、ガレージに粉を撒いてドラゴンが歩いている様子を見ようと言うと、「ドラゴンは空を飛んでいる」などと言う。ガレージにドラゴンはいるが、目に見えず、触ることもできない。火を吹いていないので熱くもない。
ドラゴンがいるという人は、存在の証拠を質問するたびに屁理屈をこねてくる。そんなことを言う人にはこう言うしかない。「ドラゴンがいるのは分かったが、これはドラゴンがいないのと何が違うんだ?」

何かの事象があると主張するならば、その証拠を示さねばならない。そうしない限り、それはないのと同じである。

映画では、公聴会で委員のひとりがエリーが劇中に何回か口にした「オッカムの剃刀」の話を持ち出す。「オッカムの剃刀」とは、なにかの説明に際して不必要な仮定は極力取り除くべきというもので、転じてカール・セーガンは「仮説がふたつあるとき、より単純な方を選択せよ」としている。
「異星人が送りつけたメッセージを解読して、傍からは移動したように見えない瞬間移動装置で宇宙空間を移動して異星人に会ってきた」という仮説と、「エリーを金銭的に支援してきた酔狂のカネ持ちが人工衛星から異星人のものに見せかけたメッセージを送りつけ、それに担がれた人物がいた」という仮説のどちらが単純で、真実であるかという問いを突きつけられる。
普通の人の尺度では、宇宙人の瞬間移動装置の設計図を解読して作った装置で宇宙人と接触したという事実より、カネ持ちの変態が世間を担ごうとしたと考える方が単純で、ありそうに思える。
エリーには返す言葉がなかった。

世の中には陰謀論が溢れかえっている。仮説に次ぐ仮説で複雑な陰謀が真実だったことなど滅多にない。世の中は思ったほど複雑ではなく、案外単純なことが多い。「宇宙人からのメッセージ」と「カネ持ちの道楽」ではどちらも陰謀論のようだが、より単純なのは後者だ。実際は、映画では前者の方が正解であるが、後者の方が選ばれるのは仕方がない。
より単純な方を選ぶということは、多くの場面で間違いではない。「オッカムの剃刀」はものごとの真贋を見極めるものではないが、複数ある仮説から何を選択すべきかの判断に役立つ。

例えば、「戦争中に戦地で兵隊相手に売春で稼いでいた女性がいた」という仮説と、「軍隊が人知れず数十万の女性を拉致して兵隊向けの性奴隷にし、戦後は何ひとつ証拠を残さず隠滅した」という仮説があったとして、我々はどちらを選ぶべきか。答えは自明である。

証拠があるものは事実であり、証拠がないものは事実ではない。

ものの真贋を図るとき、この心得だけで十分だ。これで真実が分からないとき、仮説が複数あってどちらかを選ばねばならないならば、より単純な方を選択すれば間違いは少ない。

映画から学べることはいろいろある。