東日本大震災の地震発生から15分後、宮城県石巻市の私立日和幼稚園では園児を送迎バス2台に乗せて家に帰そうとしていた。
2台のうち1台は交通事情などから幼稚園に引き返して津波の難を逃れた。幼稚園は海岸線から700メートル離れた場所の、海抜23メートルの位置にあった。
ところが、もう1台の方は沿岸部を走行中に津波に巻き込まれて横転。付近で起きた火災によって火が付いて、幼稚園児5人と女性職員ひとりの計6人が死亡した。
この悲劇的な事故があったあと、死亡した園児5人のうち4人の親が幼稚園側に対し、「安全配慮を怠った」として2億6680万円の賠償を求めた訴訟を起こした。
仙台地裁による一審判決が9月17日に下され、遺族側の主張を認め、幼稚園側に1億7660万円の支払いを命じた。
斉木教朗裁判長は判決理由で「巨大地震発生後の津波に関する情報収集義務を園長が怠った結果、園児の津波被災を招いた」と指摘した。
この判決は、一般人からすると恐るべきものである。今となっては津波の恐ろしさは日本人の誰もが知るところだが、当時、あの地震のあと、あれだけ強烈な津波が押し寄せ、大変なことになると誰が予想できただろうか。
にも関わらず裁判長は、「情報収集をしなかった園長が悪い。賠償金を支払え」と命令した。
正直なところ、あの場で「津波が来るから危ない。園児は園にとどめておくべきだ。キリッ」と判断できる人間はどれほどいただろうか。
結果論でものを言うのは簡単だが、園児を先に帰した方がいいのか、幼稚園で面倒を見た方がいいのか、難しい判断を迫られて適切に判断できる人間がこの世にどれほどいるだろう。
その選択を間違って、「園児が死んだのはお前のせい、金を払え」と責められる園長が不憫に思える。
遺族側からすれば、自分の最愛の子が死んでさぞ悔しかろう。その日、「幼稚園に行ってなければ」、「バスに乗ってなければ」、といろいろ考えるに違いない。
そうして行き着くところが、「送迎バスのせいで死んだ」、「幼稚園のせいで死んだ」となるのも仕方がない。
誰かに子供の死の責任を押しつけたくなる気持ちは十分分かるが、それでもあの震災の中で適切に判断できなかったことを責めるのは幾ら何でも厳しすぎやしないか。
他人が見て、「しょうがない」と思うような事故でも、当事者にとってみれば「しょうがない」では済まないのは普通だろう。被害者が自分で何も判断できず、行動できない幼稚園児なら尚更である。
ところが、これと似たようなことを大学生に置き換えてみたらどうだろうか。
今年5月、駒澤大学の吹奏楽部が長野県信濃町で合宿を行い、自由行動の時間に部員が野尻湖で水遊びをした。部員のうち、20歳の3年生男子部員と、18歳の1年生女子部員はボートに乗って湖上に浮かぶ琵琶島に行き、そこの桟橋から飛び込んで死んでしまった。
どう考えても、水辺での不幸な事故であるが、驚いたのが18歳女子学生の両親が、大学と吹奏楽部部長の男性教授を相手に、7000万円の損害賠償訴訟を起こしたのだ。理由は、「大学側が安全配慮を怠った」である。
これが幼稚園児なら分かるが、18歳の大学1年生が、勝手にボートに乗って湖に浮かぶ島に行って、そこの桟橋から飛び込んで水死したことの責任が、大学にあるとは到底思えない。
両親が言う「安全配慮」とは、学生に対して、大学や教授が「水辺でふざけると危ないから、湖に飛び込んだりしないように」などといちいち説明することなのだろうか。
そんなことは家で教えておけ。大学は学生に対し、水辺で遊ぶと危ないと警告する組織ではない。そんなことを言い出したら、合宿で食べるものについて「食べ過ぎはいけません」とか、合宿中に「道路に飛び出すと危険です」などといちいち教える必要があるのか。
18歳の女子学生がどれほどアホだったのかは知らないが、そんなことを大学から注意されないと死んでしまうようなアブナイ人間だったのであれば、それは両親の育て方の問題であろう。
大学の部活での合宿中に交通事故に遭ったならば、ドライバーを責めることができるだろう。合宿中に湖で勝手に溺れ死んだら自分の娘か自分たち以外を責められない。だから責任転嫁をすべく大学と教授を訴えたのだろうが、厚顔無恥の極みである。
津波に巻き込まれた幼稚園バスの裁判は、どうにも不条理な感じがする判決が下った。今後、高裁以降でどうなるかは分からないが、とにかく少なくとも一審は遺族側の訴えが認められた。
駒大吹奏楽部の女子学生の裁判はどうなるだろうか。もしこれで、大学側の責任が認められたならば、大学は学生を連れて合宿なんぞできなくなる。あらゆる事故の責任が大学のせいになってしまうからだ。
この裁判は、日本人がどこまでアホなのか、日本人には最低限の常識があるのかを試されるような裁判になると思う。
2013年10月
どの口で言うのか
昨日29日(火)にMSN産経ニュースに掲載された経済コラムはかなりの辛口だった。
Yahoo!ニュースやITmediaなどのニュースサイトにも転載されたから読んだ人も多いかも知れない。
【MSN産経ニュース】 「ポストiPhone」生み出せぬ日本メーカーの末期症状…いまだ高画質TVに固執する経営者たちの“無能” (10/29)
次世代の高画質映像に対応した4Kテレビ、さらにその次の世代の8Kテレビについて、今のフルHDの高付加価値版だとして、そんなテレビに固執するパナソニックやシャープなどの日本の家電メーカに苦言を呈している。
前に書いたが、私は4Kや8Kに期待している。テレビがアナログからデジタルに変わる時期に、「アナログで十分」などと言っていた人が結構いた。目が悪いジジイはそうかも知れないが、どう考えてもSD画質のアナログ放送より、フルHDのデジタル放送の方がいい。私はテレビ好きなので、高画質のワイド画面で見たい。
4Kや8Kもそのときと同様に、「そんなにキレイな画質で見る必要のあるテレビ番組なんかないから不要」などと言ってるヤツがいる。そいつは映像がテレビしかないと思っているのかも知れないが、家で見る映画も超高精細の映像で見たいと私は思う。
そこは価値観の違いかも知れないが、4Kや8Kが今のフルHDの単なる高付加価値版とは思えない。付加価値で済ませられるような技術であろうか。
このコラムを書いた記者は、「テレビなんか将来がないから固執せずに捨ててしまえ」と言っているに等しい。そんなもん、これまで積み上げてきた歴史や経験がある企業に気軽に言えるもんじゃない。
寧ろ、今はやりの「選択と集中」と押しつけるのであれば、これまで得意だった家電にさらに集中するのはいいことではなかろうか。
パナソニックやシャープが失敗した原因は、調子に乗りすぎてパナソニックが尼崎に巨大なプラズマ工場を、シャープが堺に超巨大な液晶パネル工場を作ったことにある。
だからといって、4Kテレビや8Kテレビを適当に開発して何とかなるような甘いもんじゃない。
今から研究開発を行い、製品をリリースし続けることで、低価格化のノウハウを蓄積でき、東京オリンピックなどで4Kテレビが注目された頃に一気に攻勢をかけることができる。
ちんたらしていたら、サムスンやLGのような韓国企業にまたやられてしまう。4Kテレビで一発逆転は十分にあり得る。
さらにこの記者は、何年かに一度はライフスタイルを変えるような製品をリリースできる体制にしろと気軽にいう。しかも、家電メーカではないAppleのiPhoneを例に挙げて。
ソニーのウォークマンのような革新的製品など、なかなか出るもんじゃない。しかも、Appleが売れているのは、革新的な製品を出しているというよりも、どちらかというとデザインや独自OSの使いやすさなどではなかろうか。
革新的な製品を出せないと製造業の魅力も未来もないという。だとしたら、韓国や中国のクソみたいな製造メーカはどうして生き残っているのか。
どう考えても、日本の企業は最先端の製品開発プラス、付加価値ゼロの低価格製品の開発と販売のふたつに注力すべきであって、単純に革新的な製品を出せとか言っている場合かと思う。具体的に革新的な製品とはどんなものなのか。いろんな新製品が出ているが、それが革新的でないということだから、どんなものか教えて貰いたい。
文句だけ垂れるのは簡単だ。文句があるのなら代案を出すなり、何か提案すればよさそうなもんだが、何もない。
しかも、それを家電業界が遅れていると、未だに紙媒体の宅配に固執する新聞業界がいうのだから、目くそが鼻くそに文句を言っているようにしか見えない。産経新聞はまだネット分野ではほかの新聞より進んでいるが、新聞社ほど旧態依然としている会社はなかろう。
くだんのコラムを読んだパナソニックやシャープの社員たちは、「お前が言うな」と思っているのではなかろうか。
現実を知るべし
厚生労働省が今日発表した情報によると、2010年3月に大学を卒業して就職した大卒就職者のうち、31%が3年後の今年3月までに退職したそうな。
前年比2.2ポイント増である。
厚生労働省の分析では、リーマンショックによる超就職難の時代の学生らで、希望する職種に就業できなかった学生が多かったことが離職率の増加に繋がったとか。
ホテルや飲食店などの「宿泊業、飲食サービス業」が51.0%で特に高く、学習塾などの「教育、学習支援業」は48.9%、クリーニングや遊園地などの「生活関連サービス業、娯楽業」は45.4%だった。
客相手のサービス業が突出して高いらしい。
一般のアホな客相手でイヤになる仕事なのかも知れないが、辞める人が多いので、新卒採用の数が増え、そこしか内定が取れなかった学生が仕方なしに就職し、すぐにやめる。この悪循環は止まらないのだろう。
私が勤める会社でも、若い社員が辞めることが多い。少し前も、私と同じ部署だった新人が3年で辞めてしまった。
そいつは、ソフトウェア開発志望で入社してきたくせに、大学でC言語をやったことがないという、とんでもない経歴の持ち主だった。大学ではJavaしかしたことがないらしい。
「そんなヤツ取るなよ」と会社の人事に文句を言いたいところだが、私が勤める会社のように、上場していても東証一部ではない三流企業にはロクな学生が集まらないのだそうな。
やっとこさC言語を覚えて、3年でなんとかドライバ開発などができる見込みが経った頃、「ウェブデザイナーになりたい」と言って会社を辞めてしまった。
ウェブ関係の仕事ほど不安定でしんどい仕事はないと思うし、それになりたいのなら、「最初からそういう仕事に就職しとけや」と思わずにはいられなかったが、ささっと辞めてしまったため、私たち先輩社員の3年間の努力は水泡に帰した。
私が勤める会社は、ほんの2年前までは社員に対してブラック企業ともいえるような仕事のさせ方をさせていた。残業ゼロ、休日出勤手当ゼロは当たり前で、2か月連続で休みなし、1か月の時間外勤務120時間でも手当ゼロなので死にたくなった。
だが、労働基準監督署の度重なる手入れで、しぶしぶ超過勤務の手当を出すようになったので、収入が一気に増えた。
将来出世できる見込みはないが、世の平均よりはやや多めに給料を貰えるだろうし、昔の体質の企業なのでリストラもない。クソみたいな職場に回されるかも知れないが、そこそこ貰って、希望とは違うかも知れないがしょぼい仕事をし続けることはできる。
そこを辞めて、ウェブデザイナーになるとは、正気の沙汰とは思えなかった。
ウェブデザイナーもそうだが、一時はやったSEやSIなどの仕事なんか、死んでもやりたくない。SEやSIはレベルが低いのが多いが、仕事は自分よりも大変そうだからだ。
自分の仕事を理解し、ほかの職種の仕事もある程度知った上で、覚悟の上で転職するのなら結構だ。しかし、経験も積まず、何も分からずに仕事を辞めてほかに移ったところで、そこも気に入らないかも知れないということは考えられているのだろうか。
しかも、そうやって「自分のやりたい仕事と違ったから」という理由で仕事を辞めるヤツは、次の仕事もすぐに辞める可能性が高いと再就職の面接で思われるのだが、そういうのも気にならないのだろうか。
世の中にあまたある転職サイトの嘘くさい売り文句に騙されているヤツも多い。「転職したら収入がアップした」、「転職でキャリアアップできた」。そんなこと、本当にあったのかどうか分からないし、あったとしてもほんの一握りの才能ある人物だけが得られることであって、「今の仕事がいやだから辞めた」というヤツには残念ながらまず当てはまらない。
殆どの転職者は、今の仕事より地位も収入も低い仕事に転がり落ちるだけ。よくて現状維持である。
超絶ブラック企業で、本当に死ぬまで働かされるというのなら別だが、イヤな仕事はどこにでもあるのだから、ちょっとくらいガマンした方がいい。
自分に合った最高の仕事が転職で見つかるなんてことは、あり得ないこととして最初から考えない方がいい。
現実は、想像するよりも遙かに厳しいのである。
庶民のグルメ
子供の頃に見ていたテレビアニメの「美味しんぼ」で、海原雄山や山岡士郎が料理を食べてその食材の産地などをズバッと言い当てているのを見て、実際に本当にそんな人がいるのか知らないが、「こんなレベルには一生なられへんやろうなぁ」とボンヤリ思っていた。
実際、そうはならなかった。
やはり、グルメというのは小さい頃からおいしいものを食べて舌を肥やさないとダメらしく、庶民中の庶民である私はグルメにはならず、繊細な舌も料理の知識も何も身に付かなかった。おいしいものを食っていないのだから当たり前である。
人間の種類で分類すると、味覚音痴の方に入るのは間違いない。嫁さんが料理を工夫して何かしても、どんな工夫なのか全く分からず、いつもと違っていることすら気が付かないのだから、嫁さんに「料理の作りがいがない」と言われる。ごもっともであり、申し訳なく思う。
そもそも、食に対するこだわりがまったくないので、数年前からダイエットのために平日の晩飯をソバ、サラダ、豆腐、納豆だけにしている。低インシュリンダイエットが流行した頃で、その名残が今も続いている。
一時的に痩せたが、今では大した効果もなく、同じくらいの超過気味の体重をキープしている状態だ。
こうなると何のために続けているのか分からないが、ソバやサラダ中心の生活をする前は、夜遅くに帰ってきて油ものを食べたりして、就寝中に逆流性食道炎で寝ゲロを吐いていたりしたが、食生活を変えてからそれが起きなくなった。また、朝の通勤時によく腹痛になったが、あまり起きなくなった。だから続けている。
それでも、平日だけとはいえ、よく同じものを何年も食べ続けられるのが信じられないと、会社専属の保健師に言われた。
自分でも不思議だが、毎日同じものを食べてもあまり飽きない。
犬や猫は、味覚を感じる舌の組織が人間に比べて極端に少ないため、味が分かりにくく、毎日同じエサを食べても飽きにくいのだそうだ。きっと私もそれと同じに違いない。
その程度の人間だから、ホテルで高い料理を食べようと思わない。牛丼やファミレス、回転寿司で十分だ。
確かに、ホテルの鉄板焼き屋で高い肉を食べるとめちゃくちゃおいしいとは思うが、別にそれ以外にもそれなりにおいしいものがあるのだから、もっと安いもので構わない。
阪急阪神ホテルズで、偽装としかいいようがないメニューの誤表示の問題が世間を賑わせている。
中国産と日本産のそば粉をブレンドされた「天ざるそば(信州)」とか、既製品を使っただけの「手作りチョコレート」、市価で数分の1の安いブラックタイガーで調理した「車えび料理」、自家製ではない「自家製パン」。何年もやっていたのだから、何年もの間に食べた客の誰にも気付かれなかったということなのだろう。
海原雄山ならすぐに気が付いて、ホテルの支配人を呼び出して罵倒しているところだろう。
しかも笑えることに、阪急阪神ホテルズ傘下のリッツカールトン大阪でも同様の偽装があったのだが、車えびを偽装していた中華料理店は、ミシュランのひとつ星を獲得していたらしい。偽装メニューを出している店でも星が貰えるのだから、ミシュランのいい加減さがよく分かる。
我々庶民が本当の味を知らないことをいいことに、雰囲気だけでうまそうに思わせていた手法はある意味立派かも知れないが、褒められたもんじゃない。
「どうせ分からないだろう」と高をくくられ、安い素材を使って、メニューにはいいものを使っているかのように書いた。
この阪急阪神ホテルズの食品偽装問題について、「食べられないものを食わせる中国よりマシだ」と見るムキもあるかも知れないが、日本は底辺と比べて自分たちがマシだと思うほど落ちぶれてはならない。
日本がサービス業の分野で客への「おもてなし」を誇るのであれば、このような客を欺く行為を許してはならない。
しかも往生際の悪いことに、阪急阪神ホテルズは「偽装ではなく誤表示だ」と堂々と宣った。すごい開き直り方である。これが本当ならば、グループ全体で「誤表示」だらけということになるが、そんなに都合よく間違いがグループ内の飲食店に集まるわけがない。
26日に出した誤表示宣言を今日になって一部撤回し、偽装として認める動きがあるようだが、あまりにも厚顔無恥な言い訳にかなりの反撥があったから、しぶしぶ認めるようになったに違いない。
とんでもないホテルである。消費者は、阪急阪神ホテルズに完全に舐められていると思っていいだろう。
最初から「偽装でした。申し訳ありません」と認めていればよかったのに、中途半端にウソをついて取り繕うとするから、こんなことになる。
出直せるなら出直せばいいが、こんな態度のサービス業は客から離れられても仕方がない。船場吉兆が潰れたように、こういう態度を続けるのであれば、阪急阪神ホテルズも潰れてもよかろう。
他人の幸せ
6月くらいから猫を飼い始めた。以前飼っていたのと同じ黒猫だ。
前に飼っていた猫は、近所をうろついていた母猫が私の家に頻繁に来るようになって、突然子猫を連れてきて紹介し、しばらくしたあとそのまま置いて出て行ったのを飼った。
元々野良猫だったから、家から普通に出してやって、適当に帰ってくるという生活をしていたが、ある晩帰ってこないと思ったら、交通事故で死んでいた。
だから、今度飼う猫は完全家猫にしようと思っている。外にまったく出さない猫のことである。
だいぶ前から、猫を家の中だけで飼い、外に出さないという人が増えている。そうすれば近所迷惑にもならないし、ケンカして怪我をしてくることもないし、病気も貰ってこないし、交通事故に遭うこともない。
こういうと、何も分かっていない人が「猫を家に閉じ込めるなんて可哀相」などと言う。
しかし、猫が外をフラフラ歩くのは、生まれたときからそうしているからであって、ずっと家の中で飼えば、家の中しか知らずに育ち、外に興味はあっても外に出たいと思わなくなる。
家の中で自由に動き回れば十分に運動になるし、家の中が自分のすべての世界だと思えば、不幸だとも思わない。
人間は、何でも自分に置き換えて考えるのが好きで、完全家猫は自分が家に軟禁されていると考えがちだが、家の中だけで育った猫は、外に出られなくともまったくストレスを感じないのだ。
外界の知らなくてもいいことを知らずに育つという、まさに温室育ちといえる猫だが、それが幸せかどうかは知らないが、少なくとも不幸ではない。
藤子・F・不二雄の漫画「エスパー魔美」で、魔美がひとりの浮浪者と出会う話があった。
その浮浪者は、大企業の社長であるが、勝手気ままな生活を満喫したくて、仕事を捨ててホームレスの生活をしていた。
だが、魔美は浮浪者のオジサンの生活を不憫に思い、食べ物などを頻繁に差し入れる。
そんな魔美に、社長だった浮浪者が問う。「エサは貰えるが、家で鎖に繋がれて飼われている犬がいる。もう一方で、ひもじい思いをしているが、どこにでも自由に行けて、気ままに生きている野良犬がいる。どちらの犬が幸せか?」
魔美は「そりゃもちろん飼い犬」と答えるが、浮浪者は「犬に訊いてみないと分からない」などとはぐらかしてどこかに行ってしまう。
社長だった浮浪者が言いたかったことは、何が幸せなのかは他人が決めることではないということだ。
幸とか不幸とかは人間が相対的に決めがちで、自分が幸せかどうか、他人が不幸かどうかは誰かと比べて評価される。
「あの人は自分より貧乏だから、金をもっと稼げるように投資の仕方を教えよう」などと考えるヤツがいるが、余計なお世話である。
自分にはよくない暮らしをしていても、他人はそれでいいと思っているかも知れない。
完全家猫のように、ほかの世界のことを知らなければ、自分が不幸だとも思わず、普通に暮らしていけることだってある。
自分の価値観を他人に押しつけて失敗しているのが、脱北者支援であると思う。
北朝鮮に住んでいる貧乏人に対し、「北朝鮮を抜けて韓国で暮らせば、ひもじい思いもせずに、楽に暮らすことができる」と吹聴し、命がけで脱北させる。
ところが、死ぬ思いをして脱北して韓国にたどり着いても、待っているのは天国ではなく、北朝鮮とはまた違った地獄だ。
韓国人の差別意識は強烈なので、言葉や身長などから脱北者だと気付かれ、酷い差別を受けることになる。
韓国人ですら仕事が少なくなってきているのだから、脱北者には仕事なんかない。韓国人でもやりたがらない仕事についても、ほかの韓国人の給料の半分くらいで働かされることがざら。
北朝鮮でも厳しかったが、結局モノが溢れかえる豊かな韓国でも厳しい生活を余儀なくされ、北朝鮮に戻ったら酷い目に遭わされることが分かっているのに、韓国を脱出して再び北朝鮮に戻る脱北者がかなり増えてきている。
こんな話に例えられる。
完全家猫として、飼い主の家でぬくぬくと育っていた猫に対し、キツネが言いました。
「外には楽しいことがたくさんあるから、もっと楽しい生活ができるよ」
猫は今の家の中の暮らししか知りませんでした。外がどんなものかを知りたくて、家の外に飛び出しました。
確かにキツネが言うように、外には家の中にない楽しいもの、刺激的なものがたくさんありました。
ところが、外には猫を蹴飛ばそうとする猫嫌いの人間がいました。空から自分を狙ってくるカラスがいました。車がたくさん通るためにおちおち道路でひなたぼっこもできません。
猫は家に戻ることにしました。
他人の何が幸せであるかなんて、他人が決めることではないのだ。