先っちょマンブログ

2014年01月

0125

数年前、嫁さんが「多賀大社で売っていた糸切餅食べたい」と言い出した。
古くはお多賀さんと呼ばれた多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)は、神話のイザナギとイザナミを祀る神社で、江戸時代以前は伊勢神宮よりも参拝者が多かったなどと言われているそうな。その神社周辺の土産物屋で売られているのが「糸切餅」だ。こしあんが入っている軟らかい餅で、細長い状態から糸で小さく切られている。
それが食べたいというので、仕方なしに車で多賀大社まで行った。

土産物屋で買って帰って食べた嫁さんが、「あれ?こんなんだっけ?」などと言う。昔食べた記憶で、もっとおいしいものかと思っていたが、言うほどのもんでもなかったなどと感想を述べた。
わざわざ買いに行ってこれである。

昔に食べておいしいと感じたものが、長年記憶されることによって必要以上に美化され、ものすごくおいしいものであるという記憶になってしまう"思い出補正"というのはよくある。糸切餅の話はそれとまったく同じだ。
おいしいと思っていたものが、暫く経って食べたらそうでもなくなっていたということはよくある。舌が肥えてうまく感じなくなったというより、記憶のなかで勝手に実際よりもおいしくしてしまっているのが正しいと思われる。

人間の記憶というのは非常に曖昧で、時間が経つにつれ、記憶している内容が変わっていく。
おいしいと思ったものが、めちゃくちゃおいしいと思ったものに変わってしまう。

それ以外にも、人間の記憶というのは、楽しい記憶、悲しい記憶、どちらでもない記憶が6:3:1の割合になると、5年ほど前の「1分間の深イイ話」でやっていた。
とてつもなく悲しい思いをしても、時間が経つとその悲しい記憶は薄れていく。最終的に忘れるものもあるなどして、記憶全体の3割ほどになるようになっているという説があり、実際の検証でもそうなっているとか。

すごく悲しい思いをした人は思い出して貰いたい。最初は、自分のなかでの悲しさの割合が10だったかも知れないが、ずっと10のまま過ごしている人などいない。
そのうち小さくなる。そうしないと、人は生きていけないそうだ。

苦しい思いをした記憶も悲しいのと同じで、時間が経つと忘れるか、いい思い出、楽しい思い出に変わってしまう。
学生時代の部活動で、死ぬほどしんどい思いをしたのに、何年も経ってしまうといい思い出になっていたりする。

喜怒哀楽の感情が長く続かないように、悲しい記憶、悲しい記憶は時間が経つとともに薄れてしまう。
段々と別の記憶に自分が作り変えていく。生きていくうえで、人はそうするようになっているのだろう。

だから、ジジイなどが「昔はよかった」などと言っていることを真に受けてはいけない。そういう思い出話をするヤツらの記憶は完全に変わってしまっていて、いい思い出に切り替わってしまっている。
人の記憶は、時間が経てば経つほどいい加減になり、個人的な主観が割り込んでくる。

そういうことがあるから、私は老人の昔話は話半分に聞くようにしている。あったことを客観的に事実だけ述べてくれるといいのだが、どうしても主観が入ったり、聞く人のために盛って話すからである。
最近では聞く機会が少なくなってきた戦争体験もそのひとつだろう。

だから、戦争でどれだけ酷い目に遭ったとかいう話を全部真に受けてはいけない。特に、吉田清治のような詐話師の作り話だ。
吉田清治が1980年代に済州島で従軍慰安婦狩りをしたとか吹聴したせいで、従軍慰安婦問題がここまで大きくなってしまった。
吉田は、朝日新聞に朝鮮人の女950人を強制連行したと証言した4か月後に、男女で6000人を強制連行したと同じ朝日新聞に証言している。作った話を、数か月で盛っているのである。

知的障碍者の養護施設に勤める大学の後輩が、虚言癖のある患者について語っていた。
知的障碍者のなかには、人の注目を集めたくて嘘をつくヤツがいるそうだ。知的障碍がなくても虚言癖のヤツはいるわけだが、重度の虚言癖になると、作り話を話しているという感覚ではなく、実際に自分が体験したという偽の記憶を生み出して、それを語るヤツがいるという。

吉田清治や、吉田証言のあとに次々と出てきた「強制連行された」と吹聴する売春婦らは、もしかすると、作り話を話しているという感覚は少なかったのかも知れない。吉田はのちに自らの証言について、多分にフィクションを含めた作り話であることを認めたが、それでも従軍慰安婦の強制連行の根幹についてまでは否定しなかった。

吉田についても韓国の売春婦らについても、人々に注目されるため、或いはそれで本を書いたり講演をしたりするなどの生業とするため、自分の記憶を作り変えてしまい、本人たちは本当のことを話しているつもりでいるのかも知れない。

大学の後輩に、虚言癖のある患者にはどう対応するのかを尋ねたら、彼は「知的レベルが低いため、矛盾がたくさんあるので、そこを突いていく」と言っていた。そうしないと、どんどん虚言を膨らませていくだけだかららしい。
だが、その虚言癖のある患者も、次に会ったときはまた別の虚言を持ってくるか、矛盾を少なくするように変えてくるそうだ。

終わりがなさそうなので、聞いているこちらがウンザリする話であるが、それを考えると、嘘の戦争体験を吹聴する連中には、どんな証拠を突きつけたところで、討論で追い詰めたところで何の効果もないということだろう。ほかの話を作ってくるか、ちょっと変えて矛盾を少なくするだけ。
それを思うと、さらにウンザリした。

0124-1

日本の特撮やロボットアニメが好きなギレルモ・デル・トロが監督した映画「パシフィック・リム」は、怪獣と巨大ロボットが戦うという、これまでありそうでなかったハリウッドのSF映画である。
地球を守るべく怪獣と戦うヒロイン・森マコを菊地凜子が演じる。

そして、幼少期のマコは芦田愛菜が演じている。2年ほど前にしばらく芦田愛菜を見ない時期があったが、その間に芦田愛菜は英語のレッスンを受け、「パシフィック・リム」のオーディションを受けていた。オファーを受けて引き受けたのではない。オーディションによって、森マコの幼少期の役を獲得したのだ。

映画の宣伝でデル・トロが来日したとき、マスコミから芦田愛菜についての感想を訊かれ、彼女を絶賛していた。
撮影当時7歳だった芦田愛菜が、何もないグリーンバックのセットで、両親を殺した怪獣「オニババ」から逃げまどうシーンを見事に演じてみせたからだという。
実際映画を見ると、芦田愛菜が何だかワナワナし過ぎで、呆然としながら歩くシーンなどは臭すぎると思ったわけだが、同じ年齢だったときに自分にあれができかと言われたら絶対にムリだろうから、まあ役者としてはスゴイのだろう。

その女優・芦田愛菜の出世作は、日本テレビ系のドラマ「Mother」である。芦田愛菜は実母から虐待を受けている子供を演じ、母性に目覚めた教師とふたりで逃避行を続けるというドラマらしい。
見ていないのでどんなドラマか知らないが、再放送を見た嫁さんによると、陰気臭くて可哀相なドラマで、視聴者の涙を誘うような内容らしい。
芦田愛菜の出世作となったドラマで、当時から芦田愛菜の演技がスゴイと言われていた。

芦田愛菜と日本テレビの組み合わせで、「Mother」と同じ水曜10時からの枠で今期に放送されているドラマが「明日、ママがいない」である。
児童養護施設が舞台で、また可哀相な境遇の子供たちが出てくるドラマだとか。

その「明日、ママがいない」の内容を巡り、日本中で大きな騒ぎになっている。

最初に苦言を呈したのが、通称「赤ちゃんポスト」を運営している熊本市の慈恵病院だ。
芦田愛菜演じる主人公が、学校で「ポストちゃん」と呼ばれ苛められたり、養護施設の職員から暴言を吐かれたりすることから、「偏見を生む」と抗議し、ドラマの放送中止を求めた。
「赤ちゃんポスト」をやっているのは慈恵病院だけであり、関係ないのにそこから付けられた「ポストちゃん」なるあだ名で子供が苛められるドラマが放送されたら、確かに誤解は生じそうである。

このことについて日本テレビがどう回答するのかと思っていたら、「ドラマを最後まで見てくれ」というトンチンカンなものであった。
確かに慈恵病院は「児童養護施設で暮らす子供たちを傷付ける」とも言っていたが、「ポストちゃん」というあだ名が無関係の慈恵病院と結びつけることも抗議していたはずで、何の回答にもなっていない。
日本テレビとしては、「ポストちゃん」でドラマ撮影を続けており、今さら変更できるわけがないから、あだ名の問題は無視して、「内容については全部見てから言え」となったのだろう。

それでも世間の騒動は収まらず、寧ろ燃え上がり続けるばかり。
「ポストちゃん」とは関係のない全国の多くの児童養護施設がドラマの内容について異議を申し立て、全国児童養護施設協議会が日本テレビに対して内容改善を求める声明まで出した。
施設の子供が「お前がドラマの主人公か」と苛められたりしたことも理由のひとつだそうだが、ドラマのなかで児童養護施設の職員が児童に暴言を吐いたり虐待するのが主な理由だ。

「明日、ママがいない」は、野島伸司が脚本の監修をしているそうだが、野島伸司は昔から陰気臭いドラマの脚本を書くが、陰気臭いドラマの舞台となる場所について殆ど何も調べないらしい。
だから、児童養護施設の実態がまったくドラマに反映されておらず、児童の苛められ方も大袈裟で飛躍したものになるのだそうだ。

それは脚本家の問題であるが、だからといって、「児童養護施設が酷い描かれ方をしている」という理由で、ドラマを中止に追い込んだり、それを後押しするような世論があるのはどうなのかと思う。
「ポストちゃん」は慈恵病院にとって迷惑千万だから、もうちょっと配慮があってもよかったと思うが、どんな悲惨な内容だろうが、ドラマが中止になるのはおかしい。

ドラマというフィクションなのに、それがフィクションだと分かっていないバカな人が世の中には多いらしい。役者がドラマで悪役を演じると、実際に一般人から悪い人のように見られることが多いそうだ。「半沢直樹」で悪役を演じた役者は、軒並みそういう見方をされたとか。
だから、職員が子供を苛める児童養護施設をドラマで描くと、実際にそうだと思うヤツが大勢出てくるのだろう。児童養護施設側として困るのはよく分かるが、それでもフィクションであり、問題あるのはドラマを作った方ではなく、テレビと現実の区別が付かず、同じように考えてしまうバカな連中なのではないのか。

もし「実態と違う」とか「俺たちはこんなに悪くない」という抗議によってドラマの放送が中止されてしまうようなことが起これば、それこそ日本の"言論の自由"ってヤツが失われてしまうことになるのではないか。
それがまかり通るなら、銀行員が抗議して「半沢直樹」を放送中止に追い込めるだろう。悪い警官が出てくる刑事もののドラマも、警察の抗議で中止に。汚職政治家が出てくる政治ドラマも、病院の腐敗を描いた医療ドラマも放送中止。
北朝鮮やイスラム教徒のテロリストが悪役の映画も放送できない。

「実態と違う」、「皆が皆こうではない」などと抗議され、「銀行員が苛められる」、「政治家や政治家の子供が苛められる」などと付け加えれば一丁上がり。
んなアホな。

「明日、ママがいない」で、芦田愛菜がどれほど酷い苛めや虐待を受けようが、どんな悪い養護施設職員が出てこようが、最終的に子供の主人公が死んでしまおうが、ドラマである。
ただのドラマの内容に、何を皆がムキになっているのかと思う。

これは、テレビドラマについて侃々諤々の議論がなされるというよりも、ただアホみたいに騒いでいるだけだろう。
テレビと現実の区別が付かないアホすぎる国民がいて、そいつらを何とかするのではなく、そいつらに誤解を与えないようにせねばならないと騒いでいるだけだ。
義務教育の授業でも言えることだが、どうして程度が低いヤツに合わせて皆が変えなければならないのだろう。バカに合わせてハードルを下げねばならない理由なんて何もないのに、それの実行に必死になりすぎていないか。

0122

私は毎日の出勤を完全なるルーティンワークとしており、毎朝同じ時間に起き、同じ電車の同じ車両に乗る。
同じようにしている人も多いのか、朝の電車は同じ顔をよく見かける。

毎日みたいにしても、たまに見る顔がある。大学生なのか会社員なのか知らないが、特定の日や特定の曜日だけ同じ電車の同じ車両に乗っている。

そのたまに見る顔のなかに、大学生と思われる女がいる。
途中の駅から乗ってくるのだが、見た目は標準的で特徴はない。
ごく稀にしか見かけないが、よく憶えている。なぜなら、いつもピンク色のイヤホンをして音楽を聴いていて、その音楽が信じられないほどの音量で音漏れしているからだ。

かなり離れていても、何を聴いているのか分かるくらい音漏れしている。
迷惑云々の前に、本人はどれほどの音量で音楽を聴いているのか気になって仕方がない。

人間を含む動物が耳で音を聞く仕組みはこうだ。
空気の振動(音)が外耳から入り、中耳の入り口にある鼓膜でその振動を受け、中耳の中にある骨に振動として伝える。その振動が内耳にある蝸牛へ伝わり、蝸牛内の有毛細胞に生えている毛で受け取り、脳へと伝わって音として感知することができる。

音を聞き取るためには有毛細胞が非常に重要で、この細胞に生えている毛で振動を感じ取り、音として脳に伝える。
耳が聞こえにくくなるのは、この細胞に生えている毛が痛んで役割を果たさなくなるからである。

有毛細胞に生えている毛は非常に繊細なもので、大きな音を聞き続けるとすぐに痛んでしまう。
だから、狩猟で連れ出されるレトリーバー系の犬は、すぐに耳が悪くなってしまう。レトリーバーの働きは、飼い主のそばにいて、飼い主が獲物を撃ち落とすと、それを回収しに行くというものだ。
飼い主と違って、猟銃の発砲音を耳当てもせずに聞いているから、耳が悪くなる。

だから、耳が悪くなりたくなかったら、なるべく大きな音を聞かないようにするべきである。工事現場など、大きな音がする場所で仕事をするのであれば、耳当てをして耳をガードしないといけない。
耳の機能は、悪くなるより悪くならない方がいいに決まっている。

だから、朝の通勤電車でたまに見る女が、信じられないほどの音量で音楽を聴いていることを哀れに思う。
かつて、アメリカのクリントン大統領が、若い時分に大きな音で音楽を聴き過ぎて耳を悪くしたと語っていた。
この女はクリントンと同じ目に遭いたいらしい。

周囲に音を漏らしまくるほどの音量にしなくても、イヤホンを耳に差し込むタイプのカナル式にすれば、音量はかなり絞れる。
さらに、ノイズキャンセリング機能の付いたイヤホンやプレイヤーを使用すればなおいい。

昨年末、長年使っていたiPod Touchからソニーのウォークマンに変えた。
ソニーのウォークマンには本体とイヤホンにノイズキャンセリング機能が備わっていて、それを使用することで驚くほど周囲のノイズをカットしてくれる。
音は空気の振動であるので、ノイズとなる音と逆の位相を与えれば、ノイズをカットすることができるのだ。

ソニーのウォークマンに変えることで、目から鱗が落ちる思いをした。これまでiPodで聴いていた音楽が何なのかと思うほどだ。
音がクリアに聞こえ、さらには、ノイズ除去によって、音量を絞っても聞き取りやすくなる。もちろんウォークマンのイヤホンはカナル式だから、音楽を鳴らした状態放置しても、耳をかなり近づけないとイヤホンから音が聞こえないくらいの音量にしても、何の問題もない。

ウォークマンのおかげで、通勤電車をこれまで以上に快適にすごせるようになった。
時分の耳を破壊しようとしている音漏れ女がいても、音楽を聴いていれば何も気にならない。これまで以上に小さい音量で聴いても大丈夫になったから、さらに安心だ。

余計なお世話かも知れないが、バカみたいに大きい音で音楽プレイヤーを再生しているヤツは、使うプレイヤーを考えた方がいい。
大きすぎる音で音楽を聴くことは、タバコを吸うのと同じくらい自分の体を痛めつけていることを自覚すべきだろう。

0122

犬の躾の本を読むと、吠え癖が付かないようにするため、犬が何かを要求するために吠えても無視するようにと必ず書いてある。
例えば、犬がエサが欲しくてワンワン吠え、飼い主が「お腹が減ったのね。よしよし」とか言いながらエサを与えるのは間違いである。それをすると、犬は吠えるとエサが貰えると憶えてしまい、腹が減ると吠えまくるようになる。

犬の躾として、犬が吠えても「ウルサイ」と怒ったりしてはいけないし、見ることすらしてはいけない。完全無視しないといけない。
吠えた犬を飼い主が何か言い返したり、見たりすると、犬は吠えることで飼い主の注意を惹くことができると考えてしまう。

しかも、犬はどういうわけか、こういうことだけすぐに憶える。1回の経験で、記憶に深く刻まれてしまうことがあるから注意が必要だ。

私の場合、前もって犬の躾のことを調べていたので、我が家の犬はエサが欲しくても、エサ用の皿が置いてある廊下で仁王立ちしているだけだ。リビングに犬がいないと思ったら、エサが欲しくて廊下でずっと突っ立っていたということがよくある。

だから、むやみやたらと犬の要求を聞いてはいけない。
何か食べているときに、それが欲しくて人の膝にあごを載せてくるなど、とてつもなく可愛いことをやったときは、要求に応えてやってもいいかも知れない。

飼い主が犬に対して「ダメなものはダメ」と突っぱね、むちゃな要求はガン無視するのが、飼い主と犬がうまく付き合っていく方法だ。

同じようなことは、いろんなことに対して言えるのだが、それを全く分かっていないのがニューヨーカーらしい。

今月15日、ニューヨーク市内のマクドナルドで、店が警察を呼んで韓国系の老人を店から追い出すという事案が発生したとニューヨークタイムズ紙が報じた。
報道によると、韓国系の老人たち6人がオープンと同時に来店し、誰かが1.39ドルのコーヒーを1杯、もしくはマックフライポテトを1個だけ注文し、皆でテーブルを長時間占拠することを毎日繰り返していたので、ブチ切れた店員が警察を呼んで排除したのだ。
韓国系老人たちは、1杯のコーヒー、または1個のポテトで、開店から閉店まで粘ることも度々だった。マクドナルドを韓国系移民の寄り合い所のように利用していたのだ。

この報道を見たアメリカの韓国系市民および韓国人が逆ギレし、「人種差別、老人差別だ!」と主張し、2月からマクドナルドの不買運動を展開すると宣言していた。

これのどこらへんが人種差別、もしくは老人差別に当たるのかと、普通の人は思うだろう。
だが、韓国人にはそういう普通の間隔は通用しない。韓国の新聞各紙は、「移民としてアメリカへ渡り、苦労して働いてきた韓国系の老人たちに敬意も示さず、厄介者として扱い、苦痛を与えるとは何ごとか」と主張していた。

普通に考えると、これは韓国人だからとか、老人だからという理由で追い出されたわけではない。回転率が命の飲食店で、安いものだけ買って長時間粘ってテーブルを占拠するという行為が迷惑に思われただけだ。
店と客の関係は、個別の売買契約を結んでいるようなものであり、店側は困ったことをする客を拒否することができる。出入り禁止や販売しないという対応を取ると、うるさそうな国なので、ガマンしきれなくなったところで追い出そうとした。店員が忠告しても言うことを聞かないので、警察の手を借りるしかなかった。
どう考えても、問題があるのは、まるで自分たちの集会所であるかのようにマクドナルドに長時間居座る韓国系の老人である。

ところが、結局マクドナルド側が謝罪してしまった。
ニューヨーク州の韓国系下院議員が介入し、くだんの店長と韓国系老人10人ほどを引き合わせた。そこで店長は、「警察を呼んだことは不適切だった」と謝罪した。
また、対応に当たったマネジャーを交代させ、韓国系の従業員を雇用するとも約束した。
20分としていた客席の利用時間も、1時間に延ばし、その旨を韓国語で店内に表示するとも説明した。

マクドナルド側は、面倒臭くなってこのような対応に出たのだろう。だが、こうすることによって韓国系アメリカ人や韓国人に"大きな勝利"をもたらしてしまった。
どこから見てもゴネ得以外の何ものでもないが、韓国人らは「自分たちの正当性が認められた」と大喜びである。
一部の韓国人は、外国でこのような振る舞いをする韓国人に対して苦々しい思いをしているようだが、多くはアメリカの大企業を屈服させたことに満足している。

またしても、韓国人にゴネ得が通用することを教えてしまった。とにかくゴネれば何とかなると、また勘違いさせてしまった。
これまで、日本がそれを何度も繰り返し、韓国のゴネ具合がどんどんエスカレートしてしまった。それをリセットしようとしているのが、安倍首相である。安倍首相は、犬のような畜生への対応の仕方がよく分かっていらっしゃる。
アメリカ人はまだまだだから、そういうことには気が付いていない。同じようなことを何度も繰り返されればいい。

バカな韓国人は「大勝利だ」と喜んでいるが、韓国系の老人に屈服させられたマクドナルドを見て、どこの国の人間がそれをよしと思うだろうか。
多くがそれに気が付いていないことが、本当に哀れである。

韓国人はよく「Angry Korean」と評される。理由がよく分からないが怒っている、もしくはほんの些細なことで激怒するからである。
今回も、韓国人は「Angry Korean」をいかんなく発揮した。
世界中でもっとやって、もっと恥をかけばいい。

ケネディの娘だというだけで、何故か日本ではキャロライン・ケネディ駐日米大使の人気が高い。これまで政治に関わったことのない素人のオバハンを駐日大使にあてがったのだから、オバマ政権に日本がいかに舐められているかの証であるが、好意的に捉えている日本人が多い。

週刊誌などの報道によると、キャロライン・ケネディの息子、ケネディ大統領の孫を有力政治家にするために、母親のキャロラインが立ち上がり、これまで恩を売ってきたオバマに直訴してケネディ家の実績を作るために駐日大使になったなどとされている。
いけすかないオバハンであることは間違いない。

ケネディ家の人間という理由だけで無条件にキャロラインを歓迎した日本人には、18日のキャロラインのツイートによって冷や水を浴びせられたことだろう。
突如としてツイッターで、イルカの追い込み漁に対して、非人道的であるとして懸念を表明したのだ。

言うべきことは言うというスタンスからだろうが、アメリカ人に「非人道的」などと非難されるとはこれまた屈辱的な話だ。
和歌山県太地町のイルカの追い込み漁は、古くからある伝統的な漁法だ。沖合から湾にイルカを追い込み、海面に出てきたところを鈍器でたこ名栗にして殺すので非人道的と言われるのかも知れないが、これ以外にどんな方法で漁をすれば「人道的」だと言われるのだろうか。
結局のところ、イルカ漁が気に入らないだけなので、どんな方法であっても「非人道的」と言うに決まっている。

韓国では犬肉料理のために犬を殺すとき、金属の棒を肛門に突っ込み、そこに電流を流して感電死させる。
アフリカの一部では、サメ漁のために、子犬に太い針をかけ、一本釣りを行う。子犬が痛さでバタバタ暴れるために血が流れ、それにサメがおびき寄せられ、犬に食いつくというわけだ。

あれもこれも、欧米人から見て非人道的ということで、いろんな団体が抗議活動を行っている。効率の代替方法があるのなら別だが、究極のところは単にヤメロと言っているだけなので、言われる方からしたら鬱陶しいだけだろう。

そもそも、イルカの追い込み漁は日本人だけがやっているわけではなく北欧の国でも行われているし、なにより、アメリカのアラスカ州に住むイヌイットもクジラを似たような方法で狩っている。
アメリカ人は、イヌイットの捕鯨は「自分たちの食用のためにやっている伝統的な方法」などと言って擁護し、日本人が南極海で行う捕鯨については「殺し方が非人道的」などと因縁を付けてくる。銛を撃ち、電気を流して殺すのも非人道的なんだそうだ。
アメリカ人の少数民族はOK、日本人はNG。なんという勝手な理論だろうか。

この議論が出ると、欧米人に対して必ず「牛や豚はどうなのか?」という疑問が出る。そして欧米人は言う。「牛や豚は食用のための家畜であり、人道的な方法で殺している」と。
神が作った家畜は殺しても構わず、すばやく殺しているから問題がないとは、一体どういう理論だろうか。

オーストラリア人は、増えすぎたカンガルーが農作物を荒らすという理由で何万頭も殺しているし、家畜でもないのに食用にもしている。オーストラリアは、カンガルーの個体数の調整は認めても、クジラの個体数の調整は絶対に認めない。
その上、オーストラリアでは、車で母カンガルーを轢き殺してしまった場合、袋のなかに残された子カンガルーが飢えて可哀相だからという理由で、ドライバーに対して車の牽引用の棒などで子カンガルーを殴り殺してやるよう推奨されている。

こいつらのどの口が動物に対する人道を言うのだろうか。
自分たちがやる分は認める。他人がやる分は認めない。キャロライン・ケネディのような欧米人は、めちゃくちゃタチの悪いクレーマーではないか。

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