数年前、嫁さんが「多賀大社で売っていた糸切餅食べたい」と言い出した。
古くはお多賀さんと呼ばれた多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)は、神話のイザナギとイザナミを祀る神社で、江戸時代以前は伊勢神宮よりも参拝者が多かったなどと言われているそうな。その神社周辺の土産物屋で売られているのが「糸切餅」だ。こしあんが入っている軟らかい餅で、細長い状態から糸で小さく切られている。
それが食べたいというので、仕方なしに車で多賀大社まで行った。
土産物屋で買って帰って食べた嫁さんが、「あれ?こんなんだっけ?」などと言う。昔食べた記憶で、もっとおいしいものかと思っていたが、言うほどのもんでもなかったなどと感想を述べた。
わざわざ買いに行ってこれである。
昔に食べておいしいと感じたものが、長年記憶されることによって必要以上に美化され、ものすごくおいしいものであるという記憶になってしまう"思い出補正"というのはよくある。糸切餅の話はそれとまったく同じだ。
おいしいと思っていたものが、暫く経って食べたらそうでもなくなっていたということはよくある。舌が肥えてうまく感じなくなったというより、記憶のなかで勝手に実際よりもおいしくしてしまっているのが正しいと思われる。
人間の記憶というのは非常に曖昧で、時間が経つにつれ、記憶している内容が変わっていく。
おいしいと思ったものが、めちゃくちゃおいしいと思ったものに変わってしまう。
それ以外にも、人間の記憶というのは、楽しい記憶、悲しい記憶、どちらでもない記憶が6:3:1の割合になると、5年ほど前の「1分間の深イイ話」でやっていた。
とてつもなく悲しい思いをしても、時間が経つとその悲しい記憶は薄れていく。最終的に忘れるものもあるなどして、記憶全体の3割ほどになるようになっているという説があり、実際の検証でもそうなっているとか。
すごく悲しい思いをした人は思い出して貰いたい。最初は、自分のなかでの悲しさの割合が10だったかも知れないが、ずっと10のまま過ごしている人などいない。
そのうち小さくなる。そうしないと、人は生きていけないそうだ。
苦しい思いをした記憶も悲しいのと同じで、時間が経つと忘れるか、いい思い出、楽しい思い出に変わってしまう。
学生時代の部活動で、死ぬほどしんどい思いをしたのに、何年も経ってしまうといい思い出になっていたりする。
喜怒哀楽の感情が長く続かないように、悲しい記憶、悲しい記憶は時間が経つとともに薄れてしまう。
段々と別の記憶に自分が作り変えていく。生きていくうえで、人はそうするようになっているのだろう。
だから、ジジイなどが「昔はよかった」などと言っていることを真に受けてはいけない。そういう思い出話をするヤツらの記憶は完全に変わってしまっていて、いい思い出に切り替わってしまっている。
人の記憶は、時間が経てば経つほどいい加減になり、個人的な主観が割り込んでくる。
そういうことがあるから、私は老人の昔話は話半分に聞くようにしている。あったことを客観的に事実だけ述べてくれるといいのだが、どうしても主観が入ったり、聞く人のために盛って話すからである。
最近では聞く機会が少なくなってきた戦争体験もそのひとつだろう。
だから、戦争でどれだけ酷い目に遭ったとかいう話を全部真に受けてはいけない。特に、吉田清治のような詐話師の作り話だ。
吉田清治が1980年代に済州島で従軍慰安婦狩りをしたとか吹聴したせいで、従軍慰安婦問題がここまで大きくなってしまった。
吉田は、朝日新聞に朝鮮人の女950人を強制連行したと証言した4か月後に、男女で6000人を強制連行したと同じ朝日新聞に証言している。作った話を、数か月で盛っているのである。
知的障碍者の養護施設に勤める大学の後輩が、虚言癖のある患者について語っていた。
知的障碍者のなかには、人の注目を集めたくて嘘をつくヤツがいるそうだ。知的障碍がなくても虚言癖のヤツはいるわけだが、重度の虚言癖になると、作り話を話しているという感覚ではなく、実際に自分が体験したという偽の記憶を生み出して、それを語るヤツがいるという。
吉田清治や、吉田証言のあとに次々と出てきた「強制連行された」と吹聴する売春婦らは、もしかすると、作り話を話しているという感覚は少なかったのかも知れない。吉田はのちに自らの証言について、多分にフィクションを含めた作り話であることを認めたが、それでも従軍慰安婦の強制連行の根幹についてまでは否定しなかった。
吉田についても韓国の売春婦らについても、人々に注目されるため、或いはそれで本を書いたり講演をしたりするなどの生業とするため、自分の記憶を作り変えてしまい、本人たちは本当のことを話しているつもりでいるのかも知れない。
大学の後輩に、虚言癖のある患者にはどう対応するのかを尋ねたら、彼は「知的レベルが低いため、矛盾がたくさんあるので、そこを突いていく」と言っていた。そうしないと、どんどん虚言を膨らませていくだけだかららしい。
だが、その虚言癖のある患者も、次に会ったときはまた別の虚言を持ってくるか、矛盾を少なくするように変えてくるそうだ。
終わりがなさそうなので、聞いているこちらがウンザリする話であるが、それを考えると、嘘の戦争体験を吹聴する連中には、どんな証拠を突きつけたところで、討論で追い詰めたところで何の効果もないということだろう。ほかの話を作ってくるか、ちょっと変えて矛盾を少なくするだけ。
それを思うと、さらにウンザリした。