先っちょマンブログ

2016年06月

20160630-1

今日のニュースで、「コーヒー浣腸」なる行為をするための専用器具を無許可で製造した業者が警視庁に書類送検されたいうのがあった。

【産経ニュース】“コーヒー浣腸”の専用器具無許可製造容疑の3社を書類送検 警視庁 (6/30)

「コーヒー浣腸」は美容を目的とした腸内洗浄を行うための健康法とされている。
100年ほど前に編み出された健康法らしいが、医学的にはなんら根拠がないだけでなく、寧ろ下痢や腹痛などの健康被害が出る場合があるという。

一世紀も前のいい加減な健康法を信じて実践している人がいるとは驚きだ。なにより、自分で自分のケツの穴にコーヒーを注入するのである。性的な嗜好も手伝っているのではないか。
その「コーヒー浣腸」の器具を作る会社が国内にあるのだから、そこそこ売れているということなのだろう。

そもそもの話として、テレビや雑誌などで「腸内洗浄は美容やダイエットにいい」ということが言われているが、それ自体が実にアヤシイ言説である。
腸内洗浄について「腸壁にこびりついた宿便を取り除く」と言われる。それによると、腸のひだとひだの間にたまった宿便を腸内洗浄によって取り除くと美容や健康にいいらしい。

しかし、宿便という言葉は医学的に認知されていないエセ医療用語である。
また、腸壁に便がこびりつき、それが宿便になるということもないそうだ。小腸には腸壁に栄養を吸収するための柔毛が生えているが、それはおよそ1日で抜け落ちて生え変わるため、そのすきまに便が溜まる余地がない。大腸の腸壁にはひだや柔毛などはなくツルッとしており、そこに宿便が溜まるはずもない。
実際、何年か前に大腸の内視鏡検査をしたことがあるのだが、大腸はキレイなものだった。便がこびりつきそうになどなかった。

それでもテレビで見る腸内洗浄では、肛門から水を流し込み、流れ出てくる便を別に吸い取っていた。それは単に腸内のウンコを水で押し流しているだけであって、腸にこびりついた宿便を腸内洗浄で取り除いているわけではない。排便のお手伝いをしてもらっているだけである。

腸内洗浄を勧める人のなかには、「人の腸内には宿便が数キロもたまっており、それを腸内洗浄で流す」などと言うが、便秘のウンコならまだしも、宿便なるものが数キロもたまっているわけがない。腸内洗浄でダイエットも謳われているが、ウンコを出した分体重が減っているだけである。

私が大腸検査をしたのは、会社の健康診断の検便で血が検出されたからだった。大腸のポリープや大腸がんが疑われるわけだが、結局は痔が原因だった。
大腸の内視鏡検査は自宅近くの内科・消化器科の個人医院でやってもらった。大腸検査はその日の朝に下剤を飲んでウンコを全部出しきってからやる必要が有るため、総合病院でやる場合は早めに行って下剤を飲んだり、ウンコを出したりを繰り返す必要がある。家の近くの病院の場合、家でそれをやって来てから病院で検査というのができる。

液体の下剤を水で2リットルくらいに薄め、それを2時間かけて少しずつ飲む。楽勝だと思っていたのだが、1リットルくらい飲んでトイレに何回か行ったところで急激に飲む気が失せて、最後は苦しみながら下剤を飲んだ。
トイレで出しても水しか出てこなくなった。その状態で病院に行き、病院のトイレでもう一度やって看護婦にチェックされるのが恥ずかしいが、とりあえず全部出しきったことを確認したうえで、腸蠕動を止める注射を打って内視鏡検査をする。
私は特殊体質なのか、注射を打っても腸の動きが止まらず、内視鏡が入ってくるのを押しとどめるように腸が動くので、小腸との境目まで内視鏡を進めるのにかなり苦労したし、腹がめちゃくちゃ痛かった。

それはともかく、大腸検査のために下剤飲んで便を全部出したのは間違いない。腸内洗浄で大腸や小腸のなかの便を押し流すのは、下剤で便を全部出すのと効果としては同じではないのか。
だとしたら、腸内洗浄などなんのためにやるのだろうか。わざわざ高い金を出し、他人に肛門をおっぴろげて管を差し込まれ、流れる便を見られるのである。ただの恥辱プレイではないか。

健康にいい、美容にいい、痩せるなどと聞くとなんでも飛びつき、ありがたがる人がいるが、それが本当にいいことなのかよく調べてからやった方がいい。
下剤だろうがなんだろうがウンコを全部出したらスッキリするだろうし、強引に水で腸内からウンコを押し流してそれで満足なら別にいいのかも知れないが、間違った認識でムダにカネを使うことほどバカげたことはない。

20160629-1

サイエンスライターの竹内薫が週刊新潮で連載しているコラム「もう一度ゼロからサイエンス」でド・モルガンの法則について書いていた。

喫茶店でセットメニューに「トーストと一緒にコーヒーまたは紅茶をお選びいただけます」と書いてあったとする。論理的な人間である竹内は給仕係にこう言う。
「よろしいか。論理用語の"AまたはB"は、AだけかBだけかAとBの両方か、という3つの場合を含む。ということで、私はコーヒーと紅茶を両方所望する。もちろん追加料金は払わんよ」

ド・モルガンの法則は高校の数学で習う論理演算の基礎であり定理である。その説明には、AとBという丸い集合体が示す範囲を表したベン図が用いられる。

竹内の話がよく分からない人がいるかも知れない。「コーヒーまたは紅茶」という表現は、論理演算でいうと「コーヒー OR 紅茶」と受け取れる。ORと表現される論理和は、「A、B、AとB」のいずれかの組み合わせになる。
「コーヒーか紅茶のどちらか」という意味合いであれば、論理演算なら排他的論理和を使って「コーヒー XOR 紅茶」でなければならない。
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OR(論理和)
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XOR(排他的論理和)

ジョークの話なので、こんな会話が実際にあるとは思えないし、実際に客がこんなことを言い出したら、給仕係は「日本語の"または"はそのような意味ではないので」と冷たくあしらえばいい。
そもそも、論理演算のANDは論理積、日常会話では「かつ」と表現され、ORは論理和、会話で「または」と表現される。ただ、排他的論理和のXORを一言で表す言葉はない。
だから、本来なら喫茶店のメニューには「トーストと一緒にコーヒーまたは紅茶をお選びいただけますが、コーヒーと紅茶を一緒にお選びいただくことはできません」とか、トーストと一緒にコーヒーか紅茶のどちらか一方だけをお選びいただけます」と書かねばならない。

めちゃくちゃ回りくどい言い方で書いてあると気持ち悪くなる。常識的に考えれば「コーヒーまたは紅茶」という表現は「コーヒーか紅茶のどちらか一方」という意味合いなので、面倒臭い"論理的な"オッサンのことを記にする必要はないのだが。

このド・モルガンの法則は、プログラミングをするときの基本である。ANDやORを使うビット演算もよく出てくるが、それ以上に条件文というのがよく出てくる。「AまたはB」、もしくは「AかつB」、あるいは「0以上5以下」などという条件のとき、なにかをするというプログラムは山ほどある。
この条件の付け方を間違えると、自分が考えている条件のときに指定した処理が実行されないことがある。下手をすると、どんなパターンもその条件に当てはまるなんてこともある。

プログラミングを学ぶと、論理的思考や問題解決能力が身に付くと言われている。プログラマーのすべてが論理的思考ができ、問題解決能力があるとは思えないが、確かに間違いではないと思う。自分がなにかを作りたいと思い、条件を付けながらアレコレやって、問題が起きればどう対応すればいいのか考えられる。
遊びのなかでそれが身に付くこともあるが、遊びのようにプログラミングをやれば、それが自然に身に付きそうである。

文部科学省は、2020年から小学校でのプログラミング教育の必修化を検討しているという。
英語の必修化のようにこういうニュースがあると、「そんなことをやらずにもっと国語を学ばせるべきだ」などと主張する保守派の権化のような化石が出てくる。こういう人たちは1か0でしかものが考えられないのだろうか。「国語をなくし、プログラミングを学ばせる」なら問題だが、国語もやって、プログラミングもあるのならいいではないか。
個人的には大賛成である。

プログラミングといっても、子供向けのものはソースコードを直接いじりまくるものではない。学校でハッカーを養成するわけではない。本当に論理的思考などを身に付けさせるための教育である。

文部科学省のホームページに「プログラミン」という子供向けのプログラミングが体験できるページがある。MIT(マサチューセッツ工科大学)の子供向けプログラミング言語「Scratch」をベースにしているという。

【文部科学省】プログラミン
【MIT】Scratch

これを見れば分かるが、プログラミングというよりも絵を動かして、画面の端まで来たら折り返させるとか、背景をスクロールさせたり、なにかの条件でイベントを発生させたりするというものである。
アニメやゲームを作るような遊び感覚で、いろいろな思考能力が身に付くというわけだ。

このような取り組みは非常に重要である。時代は急速に変わっている。「読み書き算盤」もいいが、今や「読み書きパソコン」が将来の産業や国力を付けるうえで必要なことになっている。
プログラミングをするなら、ある程度英語も必要だ。子供向けプログラミングを発展させていくと、英語の説明書を読んだり、英語の規格書を読む必要も出てくる。

小学生がタブレットを使い、小学校でプログラミングを学ぶのだから、すごい世の中になったもんである。子供のためにプログラミングを学ばせる親も大勢いるらしいが、そのうちこれが進めば、夏休みの自由研究がプログラミングによって作成したソフトウェアになったりするのかも知れない。子供の自由研究の手伝いをできない親が続出し、教育に関する世代間のギャップがものすごいことになるだろう。

それは悪いことではない。社会の変遷とともに、教育も変わっていくべきなのである。
時代遅れの大人に合わせて子供の教育を決めるべきではないのだ。

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昨日から台湾人のFacebookやInstagramなどのSNSを賑わしているのが、台湾軍の憲兵による犬の虐待死事件だ。
24日(金)、高雄市に駐留している台湾海軍陸戦隊の憲兵3名が「小白」という名前の1歳に満たない犬を海沿いの堤防で虐待して殺した。犬の首に鎖をくくりつけて殴ったうえで、堤防から吊るし、苦しみながらもがく犬に対して「小白、永遠の忠誠を誓え」「苦しみを恐れるな、困難を恐れるな、死を恐れるな、死んでしまえ」などと陸戦隊の教訓を垂れたという。
最終的に犬は死んでしまい、その死体は海に投げ捨てられた。

この様子を撮影した動画を、現場にいた憲兵がグループLINEでシェアしたことから事件が発覚した。楽しみながら犬を殺している動画に驚いた憲兵の友人が高雄市議に動画を提供。その市議が動画をYouTubeにアップしたうえで憲兵らを糾弾したためにニュースになった。

犬の虐待死事件なので国際ニュースになることはなかったが、台湾はこのニュースで大騒ぎである。気が狂ったオッサンが犬を殺したのならまだしも、海軍の憲兵が犬の虐待を楽しみ、殺してしまったのだ。憲兵は軍隊内の警察のようなものである。犬を虐殺するような連中が軍隊の秩序を守れるのか疑問だし、そもそも犬を殺して楽しむという感情が理解できない。

私はこのような犬が殺されるニュースなんぞ知りたくもないのだがFacebookで台湾の芸能人から一般人までニュースをシェアしたりするもんだから、嫌でも目に飛び込んできた。死んだ犬が堤防を引きずられている画像付きだ。多くの人が不快に感じるだろうから転載しない。
時間が経つと、「犬を虐待したり殺害する人間は悪い人間ではない。なぜなら、そいつは人間ではないからだ」というイラストが多くシェアされ、やたらと見るようになった。まだこちらの方がマシである。
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事件について中南米を訪問中の蔡英文総統まで「残忍過ぎる。見過ごせない」とコメントを出すなど大きなニュースになったが、結局、海軍陸戦隊内で犬の虐待に関わった3人とその上官など計9名の処分が決定し、本人たちが直接謝罪する動画が台湾海軍海軍陸戦隊のFacebookに掲載された。
犬を殺すよう命令した胡家瑋、犬に鎖をくくりつけて吊るした張峰瑜は「記大過」(大きな過ちとして記録される)という重い処罰が与えられ、さらに軍法会議送りとなった。

中華民國海軍陸戰隊

半日でコメントが3万以上付くくらいの反響だが、予想通り大半は犬を殺した憲兵らに対する非難である。

一緒に処分され、動画で謝罪させられた上官についてはとばっちりなので可哀相には思う。連帯責任とか監督不行届かも知れないが、いちいち部下に「犬を殺すな」などと命令する軍隊があるだろうか。

いじめ自殺などで評判が悪い台湾軍はこれらの処分をすみやかに決定したが、台湾人の怒りは収まりそうにもない。
犬殺害を命じた陳祐才の台南の実家はシャッターに「幹!畜生不如」(ファック!畜生にも劣る)とスプレーで落書きされた。
別の胡家瑋という憲兵の実家も「殺狗王八幹 不得好死 」(犬殺しのバカ野郎ファック 死ね)とスプレーで落書きされた。
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ネットであっという間に炎上し、実家に危害が加えられるというのは日本でも台湾でも変わらない。
それほどころか、この騒ぎの発端がSNSにあるというのもよく似ている。

犬を殺さなければそもそもこんなことにはならなかったが、ひとまずそれを置いておくとして、どう考えても他人から非難されるような動画や画像をいちいちネットにアップする理由はなんなのか。グループLINEの場合はTwitterやFacebookとは違うが、犬が殺される動画が共有され、楽しんでそれを見るヤツなどどこにいるのか。

グループLINEでの会話もネットで拡散していて、動画をシェアした張峰瑜は犬を殺したことを追求されてもなんら悪びれることなく、後悔も反省もしていなかった。
ベッキーの不倫会見を思い起こさせるが、いくら謝罪したところで本心がそうではないのなら、謝罪にはなんの意味もない。
さらにコイツは、別の「小黒」という犬をBB弾のエアガンで撃っていじめていたこともネットで自慢していた。

悪事の証拠をわざわざ残し、さらにそれをネットにアップして失敗しているヤツが世界じゅうに山ほどいるのに、どうしてこのような事件がなくならないのだろうか。
犬を殺してもなんとも思わない性分のモンスターがいることはまだ理解できるが、自分を破滅へと追い込むことを平気でやってしまバカが減らないことが理解できない。

日本でも小学生をボコボコにする動画をTwitterにアップしたバカや、あれだけ騒がれたのにまだコンビニのアイスクリームの冷蔵ケースに入ってTwitterにアップするバカがいる。

ネットで悪事を自慢して、それ相応の処罰が下されても、炎上した世間はそれだけでは許さない。
このような事件はネット上に永久に記録が残り、将来の仕事や結婚などに差し障る。人生はめちゃくちゃになり、家族にまで危害が及ぶこともある。自業自得、因果応報なのかも知れないが、それ以上の報いを受けることが多いのだから、いい加減アホ自慢はやめるべきだろう。

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韓国に行くと車の様子が日本と違うことにすぐに気が付く。韓国の車は感覚で8割くらいの確率でドアに写真のようなスポンジが付いてある。
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一般的な乗用車のみならず、クーペや高級セダンまでもれなくドアにスポンジが取り付けてあるなんとなく駐車場で隣の車にドアをぶつけたくないのだろうとは思ったが、とにかくどの車もスポンジが付いてある理由がよく分からなかった
インターネットで調べてみると、「青いスポンジは新車の証だからみんな取らない」とあった。

韓国では新車を購入すると、どのメーカーであってもドアに青いスポンジが付いた状態で納車されるという。シートのビニールをなかなか取らない人がいるが、あれと似たような感じでドアのスポンジも取られない。
スポンジが付いていると「オレは新車を買ったんだ」とアピールすることができるから取らない韓国人が多いらしいが、韓国の狭すぎる駐車場でドアをぶつけたくないという実益も兼ねている。自分で黒いスポンジや変わった形のスポンジを取り付けている人も多い。

新車自慢はダサいと思うわけだが、ドアをぶつけたくないからといって不格好なスポンジを取る付けることも理解できない。
日本ではドアをぶつけないようにするために、ドアの縁にそって目立たないように取り付けられるゴムが売られている。ぶつけたくないためだけならそっちの方がいいのに、これみよがしにスポンジを取り付けているのは、見た目をまったく気にしないか、駐車場で揉めたときにスポンジが取り付けてあることをハッキリと分かるようにするためだろうか。

韓国人は日本人と同じかそれ以上、人からどのように見られているか気にする国民性のように思うが、こういうところに無頓着なのが中国人気質が混じっていることを感じさせる。

人の目を気にするくせに、別の意味で人の目を気にしないという韓国人の中国人気質は車に限ったことではない。
韓国では屋台やタクシーでのぼったくりに注意する必要があるが、観光客にどう思われようが刹那的に稼ぎたいという気持ちは病的でもある。

昨日の産経ニュースに韓国のぼったくり文化についての記事があった。

【産経ニュース】韓国はボッタクリ文化を克服できるのか?外国人観光客にのり巻き1本900円 (6/26)

これだけ読むと韓国全土で外国人からぼったくりまくりのように思えるが、実際はソウルや釜山、済州島など観光客が大勢来るような場所だけである。実際に私が行った韓国の地方都市では、ぼったくりの話を聞いていたので注意していたが、飲食店でもタクシーでも普通だった。
韓国のタクシーの評判の悪さはよく耳にするが、地方都市では外国人が少なめなこと、ビジネスマンは必ず領収書を貰うためか、ごく普通だった。韓国のタクシーは現代自動車のまあまあのグレードのセダンが多く、料金も日本に比べるとずっと安い。台湾ほど安くはないが、台湾は古いトヨタ・カローラか、比較的新しいトヨタ・ウィッシュが多く、乗り心地はそれほどでもない。

ただ、商店街の出店では商品の値段が分からず、こういうところではぼったくられたのかも知れない。ナッツ類を売っている店があったので買おうと思ったが、店のオッサンは英語はできそうになく、話をするのが面倒くさかったので結局買わなかった。
ソウルの明洞などの出店でぼったくられるのは、値段が書いていないことが大きな理由だ。

台湾の夜市に行くと、屋台には必ずメニュー表があって、中国語ができなくても指を指して注文することができるし、値段が書いてあるから価格が聞き取れなくても自分から支払うことができる。
アジア系の外国人で賑わう大阪の黒門市場に来る韓国人が中国人が驚くのが、どんな商品にも必ず価格が書いてあることだという。台湾もそれに近いが、たまにいくらか分からないものがあって、店員に訊いたりするのだが、日本では滅多にそれがない。
だから、韓国人が「日本では外国人も日本人も同じ価格を払うのが当たり前で、安心して買い物ができる」などと言っていた。
そんなことは当たり前なのだが、そんな当たり前なことができない国が日本の近くにある。

こんなことは「おもてなし」でもなんでもなく、日本人の誠実さの現れでもない。
それでも日本の明朗会計な買い物のシステムが一部の変な国から喜ばれている。日本が優れているのではなく、自国が劣っていることに気が付き、それを改善するようにしないと観光客を呼び込むなど土台ムリな話だろう。

20160626-1

ニュースを見る限り、イギリスのEU離脱の衝撃の余波は当分続きそうだ。

EU離脱でイギリス経済が傾く。それに手を差し伸べるのが中国。英中関係がより親密になり、イギリスは中国製の原発を導入してご機嫌取りをするにとどまらず、いろんなことを中国にやらせようとするに違いない。
また、EU自体も各国保守派の勢いが増すなど、共同体としての存続に揺れている。ロシアにとっては欧州に付け入る隙だらけの状態であり、願ったり叶ったりであろう。
韓国ウォンは下落したが、ウォン安は海外依存の韓国にとってはおいしい状況でもある。

中国やロシア、韓国のような国がうまみを感じ、円高によって日本が割を食うとかふざけた状況ではないか。
その円高によって、日本は当分のあいだ苦しめられるに違いない。民主党政権下の無策によって1ドル80円を切って70円台にまでなったことがあり、それを乗り切ったことを考えれば90円台後半ならなんとかなりそうだが、アベノミクスに冷水を浴びせるのは間違いない。
日本単独で為替介入しても焼け石に水と言われているが、なにもしないよりやった方がいいように思える。

日本以上に大変なことになるのが、当事者のイギリスだろう。ポーランドやルーマニアといった東欧のEU加盟国からの移民やシリア難民などは望み通り排除できるかも知れないが、経済的な打撃は相当なもので、イギリス経済の先行きのことを考えると他国ながら心配になってしまう。
移民問題で1勝を得たとしても、それ以外のことで9敗しそうな勢いだ。
イギリスの保守派としてはしてやったりの結果だろうが、国家は移民問題の感情だけで成り立つものではない。EU離脱で経済が大きく傾いたり、スコットランドが連合王国から離脱することになれば、大損どころの話ではなくなってくる。

EU離脱の結果が出てから、イギリスのネット上では「投票率75%未満で得票率が60%未満の場合は再投票を実施する」というルールの施行を求めるよう請願が出た。イギリスでは一定数以上の請願が出ると議会で審議せねばならないという。
EU離脱を問う国民投票は、投票率が72%、離脱の得票率は52%だった。だから国民投票をやり直せということらしいが、事後で決めたルールによって前の投票が無効になるのはおかしい。
イギリス人は、自分たちが決めた決定を未来永劫まで後悔するといい。

イギリス人がこんな醜態を晒しているのは、国民投票で若者の多くがEU残留に投票したが、年配層に離脱への投票が多かった。18~24歳では75%がEU残留に投票したのに、65歳以上では60%以上がEU離脱に投票していた。イギリスでも年寄りの投票が多いため、年寄りの意見でEU離脱が決まってしまった。
イギリス人の年寄りは、かつての大英帝国のようなイギリスの覇権を今でも夢見ているのか、自国経済の主権をEUに握られ、自国に移民が大量に押し寄せてくることをよしとしなかった。

イギリスの将来のことについて、若い世代ではなく、もう先がない年寄りの世代の意見が幅を利かせてしまったことは残念である。

そもそも、どうしてこのような自体になったのか。イギリスは元々独立志向だったから、EUの前身であるECに加盟したことが間違いだったかも知れないが、一番の過ちはキャメロン首相が国民投票の実施を決定したことにある。
国民投票をしてもEUに残留できると甘い見込みをしていたし、国民投票で勝利することで国内のうるさいEU離脱派を黙らせることができると安易に考えたからか。
こんなもんはどう考えても「EU残留はイギリスにとって必要」と主張し、トップダウンで政策を進めればよかった。国民投票をやると決めたことがすべての元凶だ。

国民投票とか住民投票とか、そんなもんを滅多なことでするもんじゃない。民衆の考えが常に正しいわけではない。
そんなことをしなくてもいいように、有権者の代表が議会で討論したり、政策を決めたりするのに、議会が職務を放棄して、一般市民に重大な決定の責任を押し付けているのと同じである。

沖縄には日本を嫌う勢力がいくらかいて、地元マスコミはそれを炊きつけている。中国にそそのかされて「琉球独立」を訴えるバカも出てきて、「住民投票をやれ」と主張している。
そのようなことは絶対にやってはいけない。
沖縄で独立を考えているヤツなどほんの数%しかいないらしいが、なにがあるか分からない。「沖縄経済で米軍基地が占める割合は5%」などと訴え、「基地がなければ観光資源を活かすことができ、独立後も観光立国でやっていける」などと主張するヤツがいるが、そんな絵に描いた餅みたいなことでうまくいくわけがない。

日本国憲法には日本からの独立などの規定はなく、沖縄の独立など認められるわけがない。しかし国連の決定では、その国の憲法がどうだろうが、住民投票で独立派が多数を占めれば独立が可能だとしている。沖縄独立派の連中は「琉球は日本の植民地」だと主張しており、植民地の住民が望めば、国連の規定で独立が可能なのだ。

だとしたら、チベットやウイグルも中国から分離独立していいように思えるが、中国政府は死んでもそのような住民投票はさせない。
日本もあの知事がいる沖縄だとなにをしでかすか分からないが、なにがあっても住民投票などさせてはならない。それはほかの地域でも同じで、日本の主権を脅かすようなものを住民投票で決めるなどということは狂気の沙汰である。

EUからの離脱か残留を問うイギリスの国民投票は、世界に教訓を与えた。気軽にそんなもんをやるもんじゃないし、やるとしても僅差であれば現状を変更しないという取り決めが必要だった。なにも考えずにやったのは、明らかに間違いだった。
絶対にこれと同じことをやってはいけない。国民投票や住民投票というものは理性より感情が強く働くため、なにが起こるか分からない。日本では憲法改正以外に国民投票の規定はないが、それ以外でやる必要は絶対にない。
国民投票や住民投票によって国や地域の将来を簡単に決めてはならない。

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