いちいち「差別された」と声高に叫ぶ連中が嫌いだ。
大袈裟に「差別された」と主張し、自分が酷い環境に置かれている悲劇のヒロインのように振る舞っているのがいただけない。他人から「差別されて可哀相」と言われるのなら分かるが、自分から「差別されている自分が可哀相」と言うのが鬱陶しい。
私は親戚一同在日朝鮮人でもないし、被差別部落出身でもない。大きな障碍を抱えているわけでもない。ブサイクではないがイケメンでもないため、女性からイケメンと区別されることはあるだろう。
私が差別の対象となった経験がないから、私には差別される側の気持ちが分からないだけかも知れない。しかしそれでも、「差別された」と大騒ぎするのは恥ずかしいことだと思ってしまう。
だから、沖縄県の地元紙2紙や沖縄県で反米活動をしている連中が大阪府警の機動隊員による「土人」発言をしつこく「差別だ」と喚いていることにウンザリしてならない。いつまでその話でねばるつもりなのか。
「本土の人間による沖縄県民への差別意識の現れだ」などと言うが、沖縄県民以外の人間で沖縄県民に差別意識を持っている日本人などいるだろうか。未開な連中を「土人」扱いした機動隊員がいただけで、反米運動を差別問題に昇華させるのは間違っていないか。
そう主張する連中も、本気で差別されたと思っているわけではなく、相手に差別発言をさせたという言質を取ったことで攻撃しているだけなのだろうが、いささかやりすぎの感がある。
しかも、これが同じ差別発言でも「カタワ」「知恵遅れ」「キチガイ」などであればさほど問題にならなかったかのではないか。「沖縄県民が土人と呼ばれた」と主張できるから、機動隊員を挑発して「土人」発言を引き出した活動家らは自分たちで最高の働きをしたと思っているに違いない。
沖縄の新聞や沖縄にいるサヨク活動家がいつまで「土人」を引きずるつもりなのか知らないが、あまりにもしつこく言うと、逆に「沖縄=土人」のイメージが定着してしまう。それはそれで逆に好都合だから、それを狙っているのか。
差別されればされるほど、可哀相な人であることを内外にアピールすることができる。地政学を無視して、沖縄県をいじめるために米軍基地が配置されていると主張することも差別に基づくものだと主張できる。沖縄県の平均収入が全国最下位レベルなのも差別のせいにすることができる。
ハッキリ言わせてもらうが、自分が可哀相だとアピールするヤツはちっとも可哀相ではない。そういう主張しかできない思考を可哀相には思うが、「私って可哀相でしょ?」と問われても、素直に「そうですね」とは思えない。
自分が被差別者であるとアピールすることは、ものごとを有利にすすめる上ではなにかと便利だ。世間は私と違って可哀相な人に優しい人が多いから、すぐに同情が集まる。
「この子供は難病のため、渡米して手術するしか生き延びる術がありません」といって募金を募ると、3億円くらいすぐに集まる。世間は可哀相な人に優しい。
沖縄もそれと同じ。知事が音頭を取り、「自分たちはこれだけ虐げられてきた」、「自分たちは悲惨な目に遭っている」とアピールし、地元紙が土人問題で「沖縄差別」をプッシュすれば可哀相な沖縄のできあがり。県民からは「オレたちは可哀相」と同調され、県民以外から「沖縄県民は可哀相」と同情を集めて「米軍基地撤退を」という意見を集めることができる。
恥も外聞もなくそれでいいというのであれば死ぬまでやっていればいい。やりすぎるとそのうち誰も見向きしなくなるだろうから、自然に収まるだろうから。
しかし、しょーもない差別アピールはみっともないことに変わりはない。
沖縄で反米活動のみならず反日活動までしている連中は、なにが可哀相なのか、なにをアピールすべきなのか、今一度考え直す必要があるのではないか。