先っちょマンブログ

2017年07月

20170731-1

毎年夏になると日本テレビの「24時間テレビ」への文句がよく聞かれるようになる。不満の声の方が届きやすいのか、本当に不満ばかりなのかは知らないが、毎年毎年「誰が24時間テレビなんぞ見るのか」と思う。
誰があの番組を楽しみにして見ているのだろう。楽しみに見ている人などおらず、チャンネルのザッピングでたまたま見るくらいか。だとしたら、募金詐欺のように見えるあの番組に募金をしているヤツらは何なのか。

「感動の押し売り」だと批判されて久しいのに、障碍者に山登りや水泳をさせて、タレントにギャラを払って100キロくらい走らせることをやめようとしない。一定の需要があるからなのだろうが、その需要がどこにあるのか不思議でならない。
ワンパターンな時代劇を延々と見続けることができるジジババたちが、年に一度のイベントのつもりで見るのだろうか。

「24時間テレビ」で障碍者が走ったり泳いだりしているさまをテレビで見ることが悪趣味に思えてならない。私がこれでイメージするのが、漫画「カイジ」でカネのために高層ビルの鉄骨渡りをする貧乏人を見物しているカネ持ちたちだ。カネ持ちが「下々の者が頑張っておる」と貧乏人を見下すのと、「障碍者が頑張っとるわ」とテレビで見物することに大した違いはない。

「24時間テレビ」を見て感動する人がいるらしい。誰かが何かを頑張っているのを見て、なぜ感動できるのだろうか。
私はそもそも、高校球児が試合に勝った負けたで喜んだり悲しんだりしていることにもあまり興味がない。誰か知らない人が勝手に目標を立て、それに向かって努力した結果の悲喜こもごもなど余計に興味がない。
テレビの制作スタッフと一緒に決めた目標がしんどいなら、やらなければいい。山登りや海峡横断を成し遂げれば、本人と番組スタッフには達成感があるだろうが、他人にとっては何もない。どこぞの外人のオッサンがエベレストに登頂したところで「知らんがな」と思うように、障碍者が何かを成し遂げても何とも思わない。

当然タレントが100キロ走るとかもどうでもいい。毎年、最後にちょうどいい頃合いの時間に武道館に辿り着くようになっているが、1000万円超のギャラを貰って、100キロてれてれ走って、最後に感動もクソもない。

今年は、ジャニーズの手越祐也にオファーをしていたらしいが、事務所NGになり、東スポが「今年のランナーはりゅうちぇる」と報じていたが、30日放送の「行列のできる法律相談所」でランナーは当日発表と告知されていた。当日武道館にいて、走る理由がある人が選ばれるらしい。
実にバカバカしい。宮迫が言っていたように、急に走れるわけがない。「出演者は練習するように」と言われていたが、どうせ決まっているのは間違いない。東スポにすっぱ抜かれたからそう決めただけだろうが、ヤラセ甚だしい。

そもそも、チャリティ番組で誰かが100キロ走る意味が分からないが、直前まで決めないというのなら、前日に誰か知らんオッサンをランナーに指名すればいい。普段運動不足のオッサンが100キロ入れるとは思えないが、ちょっとだけ速めの時速5~6キロで24時間歩けば100キロになる。100キロ歩いたり走ったりすれば1000万円貰えることにすれば、普通のサラリーマンのオッサンは頑張る。私だって、1000万円くれるのなら前日に言われても、24時間テレビ当日に100キロ走破するだろう。

知らんオッサンがカネのために必死に走っている様子を見る方が面白い。二流タレントがノーギャラという名目でチャリティとして走っていることになっているからシラケるのである。
「カイジ」でカネ持ちが貧乏人の殺し合いを見物するのと同じ要領で「24時間テレビ」のマラソンを見られれば面白くなる。
スティーヴン・キングの小説に「死のロングウォーク」という小説がある。子供100人が"ロングウォーク"に参加し、歩く速度が一定速度以下になったら殺されるというルールで、最後の生き残りひとりに、何でも望むものが与えられる。
それと同じに、「1000万円山分けマラソン」として、腐れタレントやそこらへんのオッサンを競技に参加させ、時速6キロを下回った者を脱落させ、24時間後に残っている連中で1000万円を山分けすりゃいい。そちらの方が娯楽としてまだ楽しめそうだ。
10年前に日本テレビで同じ企画のバラエティを放送したそうだが、それをやればいい。

「24時間テレビ」から満ち溢れる偽善が人々に拒否感を与えるのである。何の意味があるか分からない障碍者のチャレンジ企画、タレントのマラソン企画、高額ギャラを貰っているジャニーズタレントの起用など。それを見て素直に喜んでいるのは、よほどの純粋か、よほどアホかのどちらかだろう。
番組から偽善を取り除けば、少しは見られる番組になる。それで何が残るか知らないが、前よりマシになるのは間違いない。

海外のチャリティ番組は、出演者はたとえ大物であってもノーギャラである。それが普通で、日本の自称チャリティ番組だけ謝礼という形でギャラが出る。
ランナーを当日発表することにしたり、ノーギャラで出演していることにしたり、ウソや欺瞞、ヤラセばかりの番組をチャリティにするからおかしくなる。バラエティとして放送し、ついでに募金を集める番組にすれば、毎年毎年文句を言われることもないだろう。

男女がホテルの一室で寝泊まりしたのに「一線は越えていません」などと強弁する政治家がいた。体裁を整えようとして、バカみたいなウソをつくから批判される。
テレビ番組もそれと同じで、どんなプライドが邪魔をしているのか知らないが、いいカッコをするから本質を見透かされて批判されるのである。こんなウソつき番組は、そのうち誰も見なくなる。それまでどれだけかかるか分からないが、あと数年で終わることに期待をしよう。

20170730-1

7月29日に「ドラゴンクエスト11」がリリースされたので、PS4版を購入してやってみた。子供の頃にファミコンで「1」から「3」を、大人になってPS2で「8」をやっただけで、ドラクエファンというわけでもないが、売れそうなゲームなのでやってみた。

とりあえず始めてみてショックだったのが、2017年にもなってこんな古臭いシステムのゲームが出るのかということだ。よく言えば昔ながらのシステムであるが、現代風のゲームに慣れてしまった身としては「マジか…」と思えてならなかった。

当然フルボイスなのかと思っていたが、ムービーでのセリフが一切ない。昔ながらのポロロロという効果音が流れるだけ。「たたかう」とか「にげる」とか平仮名で書いてドラクエらしさを出しているのか知らないが、とにかく読みにくい。普通のセリフには漢字が使われているのに、システム周りには平仮名と片仮名しかない。
グラフィックもキレイになったが、フィールドから城へ移動でロードが発生する。最近のゲームは先にロードしておくことで、ロード一切なしでシームレスに移動できるというのに、城に入るときに「ザッザッザッザッ」という昔のドラクエの階段の効果音が出てロード画面に切り替わる。
町の移動でも、建物に入るのにいちいち○ボタンを押してドアを開けねばならず面倒臭い。

戦闘シーンは、未だにターンバトルだ。最近あまり見なくなったので逆に新鮮で、これぞJRPGという感じだが、いちいちまどろっこしい。ターンバトルじゃなければドラクエではないかも知れないが、これでいいのかという気持ちになる。

これまでドラクエシリーズは、日本国内では出せば売れるというシリーズだったが、海外では今ひとつパッとしなかった。同じJRPGでもファイナルファンタジーシリーズはボチボチ売れるが、ドラクエはサッパリ。
そもそも、ファミコン時代に馳せたJRPG自体、海外で売れなくなっている。コマンド形式で戦ったり魔法を使ったりして、コツコツ経験値を貯め、シナリオ通りに話をすすめるタイプのJRPGは外人には受けない。今のPRGの全盛は、オープンワールドでどこでも移動でき、自分で好き勝手にシナリオを進められるタイプだ。
ドラクエでは、やらないメインシナリオなどあり得ない。制作者の意図通り、プレイヤーが100人いたら100人とも同じ進め方をする。シナリオに選択肢などほぼない。誰かを殺してしまって進められなくなる話もない。
そもそも、主人公の見た目が全部同じで、なにを装備しても変わらない。

また、ドラクエにしてもファイナルファンタジーにしても、10代の若い男、しかも見た目がゲイみたいなのが主人公やその仲間だ。「ドラクエ11」の主人公は16歳。
海外のゲームは子供ではなく、オッサンが主人公であることが多い。連続ドラマにも共通することだが、日本のゲームやドラマは主人公が10代、20代前半であることが多い。医療ドラマ、刑事ドラマ、法廷ドラマで、20代の異常に若い登場人物がいかにもできる風に振る舞っていたりするが、海外ではそういう非現実的なものはあまりない。

少年みたいな主人公が仲間との友情で困難を乗り越え、大人になるのがドラクエのようなJRPGだ。子供はそのままプレイして、大人は子供に戻った気分で自分を投影する。海外の子供は大人になりたいという願望があるそうで、それがゲームやドラマの登場人物の違いになるようだが、海外展開をしたいゲームなのに、16歳のガキが主人公で、古臭いタイプのJRPGでは絶対無理だろうと思った。
主人公が30とか40のオッサンで、自分は勇者だと訴えると単にイタい主人公になってしまうわけだが、オッサンが主人公ならドラクエのような昔からありがちなシナリオにはならない。

土日ずっとドラクエ漬けになるくらいやるかなぁと思っていたが、2時間くらいやっただけだ。ここ数年、クリアせずに途中で放置しているゲームばかりなのだが、「ドラクエ11」もそうならないか心配になった。

思ったほど「ドラクエ11」をやらなかったので、久々にレンタル屋にいって「君の名は。」のBlu-rayを借りてきた。Amazonのプライムビデオでは1泊2日500円だが、近くのレンタル屋だと180円で見られる。
高校生の男女が入れ替わるという内容しか知らず、まったく予備知識なしで見たのだが、割とシリアスな内容で、大ヒットしただけあってなかなか面白かった。
これもまた「子供が主人公の映画か」と思ったわけだが、主人公が高校生でなければならないシナリオだ。日本でなければ成り立たず、主人公が高校生でなければ成り立たない話だった。
観衆は主人公である高校生に自身を投影して映画を見たと思う。もどかしく思ったり、「自分ならこうする」と考えたり、最後にふたりを引き合わせたいと思ったはずだ。

「君の名は。」は海外でも大ヒットした。日本ならではのガラパゴスな内容でも、アニメ映画なら受け止められる。だが「ドラクエ」のようなゲームではダメだ。それを思うとなぜダメなのかよく分からなくなる。映画はただ見てるだけ、ゲームは自分で操作するから、ゲームでは自身を投影したいキャラクタでなければならないのだろうか。

とはいうものの、「君の名は。」は海外での受け入れられやすさを考慮して作られた作品ではない。恐らく海外のことなどあまり考えられずに作られたはずだし、海外のことを考慮したら絶対に変な内容になっていたはずだ。
そう思うと、「ドラクエ」も変に海外を意識して、主人公をオッサンにし、オープンワールドにして、リアルタイムバトルにし、無機質な町人を適当に歩き回らせ、グロテスクな敵を出しても海外で売れないだろうし、JRPGのよさがなくなり、シリーズのファンを失うだけになるのかも知れない。

日本には変わる必要があるものが多いかも知れないが、変わらなくていいものもたくさんある。
「ドラクエ」のような古きよきゲームはそのひとつかも知れない。

20170728-1

十何年仕事をやって学んだことのひとつに、「なにかを誤魔化すためのウソはつかない方がいい」というのがある。当たり前の話に思えるが、仕事で誰かにウソをつくことなんか山ほどある。どうでもいいウソは別にいいのだが、こちらになにか瑕疵があったとして、それを誤魔化すためにウソをつくと結果的にロクなことにならないことが多い。
そのウソを取り繕うためにまた別のウソをつかねばならないという、ありがちな状態に陥ってしまう。

たまにメチャクチャ厳しい客がいて、適当な客と同じように適当にウソをついてあしらうと、あとからツッコミが入って辻褄を合わせるのが大変になる。
そういうことが面倒になったので、最近はすべてぶっちゃけて客に話をするようにしている。「検証リストになかったので検証していなかったので問題に気付きませんでした」などと言うと、怒った客が再発防止策なんぞを求めてくるが、そっちを適当にあしらった方が早い。
客に怒られるのを避けるためにウソをつき、後々苦労する方がよほど面倒臭い。

正直に話すと、たまに「なぜこの不具合に気が付かなかったのか」と言ってくる客がいる。不具合に気が付かなかったことにキレられてもどうしようもない。知っていて対処しないなら話は別だが、知らなかった、分からなかったのだからしょうがない。
だから、「そんな細かい条件に気づくわけがない」、「検証リストに入っていなかったから」と言って、「検証リストに追加しまーす」として強引に終わらせる。

こうなってしまったのは、客にキレられるのに慣れてしまった結果である。いちいち誤魔化したり小細工をすることに疲れた。半ば諦めの境地であるが、仕事をスムーズに進めたいならば、変なウソをついて、後で大変な思いをしないようにした方がいい。ウソをついたり、誤魔化したりしたことがバレた後の処理の方が、先に本当のことを言ってしまうよりよほど大変だ。

「客に怒られてもええわ」という低いプライドしか持っていないと私のようになる。逆にプライドが高い人たちは、問題がバレそうになると頑張って小細工し、取り繕うとする。
高度な戦略があってのことなのか、なんとか誤魔化せると考えてしまう浅知恵なのかは知らないが、成功すれば前者になり、失敗すれば後者になる。

内閣改造まであと1週間だったのに、稲田防衛相が辞任した。自衛隊の南スーダン国連平和維持活動における日報問題ということだが、これもいろいろ誤魔化そうとしてウソをついて、メチャクチャになってしまった悪いパターンだ。

元々なんの問題だったが薄れてしまった感があるが、最初は昨年7月、自衛隊の日報に南スーダンの首都で「戦闘が生起した」と書かれたことが発端だった。
戦闘が行われているような場所で自衛隊がPKO活動できないことになっているので、誰があとでそれを隠そうとしたのが間違いだった。

10月に情報開示請求された時点で、政府や防衛省が「PKOを中止にするほどの戦闘ではなかった」などと押し切れば、その話だけで済んだはずだ。
ところが、防衛省が「日報を破棄した」などとウソをつくもんだからおかしくなった。そんなもん、あとで調べられればバレそうなもんだが、なんとかなると思ったのだろう。
結局、統合幕僚監部や陸上自衛隊に日報が保管されていることが明らかになり、今年5月に予定通り南スーダンから自衛隊が撤退するまでウソや誤魔化しで政府が粘り勝ちした感が出てしまった。稲田防衛相に報告があったなかったでも揉めるようになって、メチャクチャになった。

最初の段階で、南スーダンの首都で戦闘行為があったのではないかという情報開示請求があった時点で素直に日報を出し、「こうこうこういう理由だから問題ない」と押し切った方がよほどマシだった。
防衛省は認めないだろうが、「日報を破棄したことにしよう」と誰かが考えたことが悪かった。雪だるま式にウソを重ねることになり、国民の不信感が増すことになった。
稲田防衛相は強く情報開示を求めるべきだっただろう。当初から彼女はそう主張しているが、結果的にそうならなかったのだったら、していないのと大して変わらない。

大体の問題は、誰かに説明するときに最初に正直に話した方が被害最小で収まる。ウソをついたり誤魔化すことで被害なしで済むこともあるかも知れないが、バレたときのことを考えると、ハイリスク・ハイリターンになってしまう。
それでも、過ちを認めることは自分の出世に関わってくるから、役所の幹部とか政治家とかはウソをついたり、誤魔化さずにはいられないのだろう。過ちを認めることなどプライドが許さないし、そんなことで自分の出世を潰したくない。

出世する気もなく、他人が怒っても平然としていられるほどの悟りを開いた会社員はそう思うのであった。

20170727-1

前にアマゾンのプライムビデオで「グッド・ワイフ」というアメリカの法廷ドラマを見ていると書いた。その「グッド・ワイフ」のシーズン2から、マイケル・J・フォックスが準レギュラーで出演している。いろんな訴訟で主人公と争うことになる弁護士の役だ。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でハリウッドスターの仲間入りをしたマイケル・J・フォックスは、1980年代後半から90年代前半にかけて数多くの映画に主演したが、30歳の頃に発症したパーキンソン病が原因で俳優活動を退いた。闘病について綴った自伝「ラッキー・マン」は世界的なベストセラーになった。
私も買って読んだが、重い病気でもポジティブに捉える彼の考え方はよかった。

しばらくは「スチュワート・リトル」というアニメ映画の声優だけをやっていたが、本格的にテレビ復帰し、いくつかのドラマに出演することになる。「グッド・ワイフ」はそのひとつだ。
パーキンソン病の役者がどう演技するのか気になると思うが、「グッド・ワイフ」では神経疾患を患った弁護士として登場している。マイケル・J・フォックス演じる弁護士は裁判の冒頭で陪審員に語りかける。「神経疾患のせいで手足が震えたり、変な動きをするが気にしないで欲しい」と。

これは弁護士としての常套手段だった。そうやって陪審員の注目を集め、同情を買う。彼は悪徳製薬会社の顧問弁護士をしていたが、神経疾患を抱える弁護士が弁護するなら、製薬会社の言い分が正しいように陪審員は思ってしまう。

「グッド・ワイフ」には腹黒い弁護士や政治家がたくさん出てくる。マイケル・J・フォックス演じる弁護士のほかにも、自身が臨月であることを利用して弁護に利用する女弁護士も出てくる。
陪審員も裁判官も人間だから、弱い立場の人の意見に耳を傾け、ついついその味方をしたくなってしまう。特に病気や障碍でハンディキャップのある人には肩入れしがちになるし、同情される方はそれを利用する。

まったく理解できないことだが、昔から障碍者は心が清らかだと信じ込んでいる人がいる。知恵遅れの場合はどうか知らないが、満足に歩けない、目が見えない、耳が聞こえないというハンディキャップがあることで、どういう理由で心が清らかになるのだろう。
そこらへんは健常者も障碍者も同じだろう。健常者と同じくらいの割合で障碍者にも悪いヤツがいるだろうし、同じくらいの割合で心が荒んでいる。私だったら、健常者に対する妬み嫉みが多く噴出することだろう。

すごくルックスがいい人と、すごくブサイクな人がいたとして、ブサイクな方が性格がいいように思えるが、実際にはブサイクにも性格の悪いヤツが大勢いるし、美人でも性格がいい人も大勢いる。
健常者と障碍者もそれと同じで、健常者だから、障碍者だからというのは心が清らかであるとかいう判断の基準にはなりえない。

それでも人間は、なにかしらのハンディキャップを抱える人とか、大変な人生を歩んできた人を応援したくなってしまう。そういう人たちなら大丈夫だと信じ込んでしまう。極悪な障碍者もいるだろうし、貧乏をして苦労しているから貧乏人に優しいなんてこともない。
乙武はめちゃくちゃ不倫するし、のし上がった貧乏人が貧乏人を蹴落とすなんてよくあることだろう。

だから、他人を信任するにあたって、本人やその周囲の境遇などを参考にしてはいけない。本人がハンディキャップを抱えるかとか、苦労している人生を歩んできたかなどばかり見てしまうと、判断を誤ってしまう。

その典型的な例が今井絵理子だろう。耳が聞こえない長男を持つ母親であることを訴えて国会議員になった芸能人で、当選してから政治の勉強をするとかほざいたアホである。
子育てでいろいろ苦労している人なら、国をもっとよくしてくれるだろうと期待されたはずなのに、国会議員としてなんの成果も残せず、不倫の恋愛をしていると週刊誌に暴露されてしまった。

今日発売の週刊新潮が、今井絵理子と自民党の神戸市議会議員と不倫愛をしているとスクープしていた。ふたりは、ホテルやマンションで一晩過ごしているのを何度も嗅ぎつけられ、新幹線で手を繋いで爆睡しているところを写真に撮られるという脇の甘さ。
橋本健とかいう神戸市議は既婚者であるが、妻とは別居していて、離婚調停も4~5年しており、結婚生活は破綻している。それを不倫だと目くじら立てるのもどうかと思うし、そうでなかったとしても政治家が不倫恋愛をしたくらいでいちいち騒ぐようなものでもない。
しかし、今井絵理子は政治家としてなんの結果も残していない状態で、政治家になって不倫恋愛という不名誉な結果だけを人々の記憶に刻み込んでしまった。

こんなヤツに期待する方が間違っていたのである。子供が障碍者だからといって、シングルマザーとして子育てをしているからといって、立派な親で間違いないとはいえない。仮に立派だとしても、政治家として適しているかは分からない。政治家としての思想や理念をなんら判断せず、「耳が聞こえない子供がいるから」とか「有名人だから」というクソみたいな理由で今井絵理子を国会議員にしたのは有権者である。
自身の選挙期間中、インタビューに対して「選挙期間中なので答えられません」とか「沖縄のことは分かりません」などと回答するヤツに票を入れた有権者は反省すべきだろう。

そんなことで騙される人が多いから、選挙で利用される。政治家に向いていないような候補者でも、有権者がコロリと騙される。候補者や政党からすればちょろいもんだろう。
単純な有権者が多いから、ハンディキャップを抱えたり、子供のことでいろいろ大変そうなヤツを適当に見繕って政治家に仕立て上げることができる。

政治家や候補者の人となりまで知ることは難しいが、少なくとも今井絵理子の件に関しては、本人の問題というより、そいつに投票した有権者の問題に思えてならない。
今井絵理子なんぞに期待を寄せるのも間違っている。こんなヤツはロクな政治活動ができない。せいぜい、派閥の親分の指示に従って国会で投票し、プライベートでときたま色恋沙汰を起こすだけ。
国民はいい加減に学ぶべきである。

20170726-1

相模原市の障碍者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害され、20人が重軽傷を負った事件から今日で1年になるという。
事件は、施設の元職員だった植松聖という男が起こした。植松は事件1年にあたりいくつかのマスコミに手紙を送っており、そのなかで次のような従来の主張を繰り返した。
  • 意思疎通がとれない人間を安楽死させるべき
  • 重度・重複障碍者を養うと莫大な金と時間が奪われる
  • 3年間の施設勤務によって、重度障碍者が不幸の元である確信を持った
  • 責任能力のない人間は罪を犯しても償えないので、罪を犯す前に即死刑にすべき
自分がやったことは安楽死でもなんでもない。恐怖を与えて無残に人を殺しただけだ。
それに、他人の不幸を勝手に決めつけ、それを終わらせてやろうなどという考えは余計なお世話である。

この植松聖という男は、ひとりで生きていけない障碍者を健常者が養うことは時間とカネの無駄遣いであり、自然の摂理に逆らうと主張している。野生の動物ならそうかも知れないが、助け合って生きていくのが人間であり、畜生との違いだ。それを否定するのであれば、人間が人間であることを否定するのと同じだ。
人間のことを霊長類というが、霊長類は動物の首長たるものという意味合いを持つ。そんな人間がそこらへんの畜生と同じでいいのか。

とはいうものの、同じ人間であるのに植松聖に共感する人間がいくらか出てくる。こういう殺人鬼が現れると、共感者が出てくるのは昔から毎度のことで、犯人をヒーロー扱いするヤツまで出てくる。
学校や職場で表立って言わないにしても、ツイッターなどで植松を絶賛する声があがっている。

被害者が一般人ではなく、重度障碍者だというところがミソなのだろう。重度障碍者は惨めな生活だから殺されて当然なのだろうか。
犬のブリーダーが障碍のある子犬を踏み潰したり、保健所送りにするかのごとく、障碍者の人生を終わらせることに正義もなければ、筋が通る理屈もない。他人の人生は他人が勝手に決めるものではない。

とはいうものの、大事件なのにマスコミの扱いが小さく、世間の関心が低いのは被害者が重度障碍者だからであろう。マスコミは報道しにくいし、施設に預けていた家族もマスコミの前に出にくい。
世間のホンネとして、重度障碍者なんだから別にいいじゃないかという思いがあるのかもしれない。遺族である親は「自分が死んだら子供はどうなる」という心配に駆られる必要もなくなったと思われているかも知れない。

私には子供もいないし、親族に障碍者もいない。だから、障碍のある子を持つ親の気持ちはまったく分からないが、重度障碍があるからといって子供が死んでよかったと心から思っている親などいるのだろうか。もしかすると、僅かにはそういう気持ちがあるかも知れないが、すべてではないだろう。

その昔の若い頃、自分の子供がダウン症だったら子供を可愛がれると思うものだろうかと思っていたことがあった。そのくらいの若い時期に、地元の映画館に「ロード・オブ・ザ・リング」をレイトショーで見に行った。
3時間もある映画なので夜の12時くらいに終わって映画館を出ているときに、10歳くらいの娘を連れたオッサンが「面白かったなぁ」と笑顔で話しかけているのを見かけた。女の子はダウン症で、父親と見られるオッサンはパンチパーマで金のネックレスをしていて、いかにもガラの悪そうなチンピラだった。
近寄りがたいチンピラ然としたオッサンがダウン症の娘に映画の話を楽しそうにしているのを見て、「こんなオッサンでも、娘がダウン症であっても可愛いもんなんだな」と思った。
偏見や差別に満ち溢れた考えであるが、正直にそう思った。今でもときどき、そのオッサンと屈託のない娘の笑顔を思い出す。

どんな子供でも、親は無条件に子供を愛するものである。その子供の命を、私刑のかたちで他人が勝手に奪っていいわけがない。
植松聖は被害者の命を奪ったばかりが、遺族の心まで引き裂いた。そんな権利があるわけないし、そんなことが許されるわけがない。

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