先っちょマンブログ

2017年11月

20171124-1

あまり有名ではないが、「ウェドロック」という1991年のアメリカ映画が好きだ。脱獄ものの映画で、刑務所の仕組みがユニークだった。

看守が少なく、フェンスで囲まれているわけでもない刑務所に囚人が入れられているが、誰も脱獄しようとしない。なぜなら、囚人の首に電子首輪が取り付けられていて、ムリに外そうとすると爆発し、任意の誰かとペアになっていて、互いの距離が100ヤード(91メートル)を超えても爆発するからだ。
誰がパートナーになっているか分からないため、勝手に脱獄されると自分が巻き添えで死んでしまうかも知れない。そのため、囚人同士が互いに監視して逃げられない状態になっていた。
主人公はちょっとした偶然で自分のパートナーを知って脱獄する。そのあとは片方が車に乗せられたりして、距離が開かないよう必死に追いかけたりするなどハラハラドキドキの展開がある。

ハリウッドは題材不足で悩まされているのだから、リメイクしたらもっと面白く作れそうなものだ。
ただ、今になってよくよく考えてみると、パートナーが離れたら爆発するのではなく、素直に刑務所から離れたら爆発するようにしたらいいじゃないかと思える。そこらへんは、別要素追加でどうとでもうまく調整できるだろう。

互いに疑心暗鬼で監視し合う状況などまっぴらゴメンだが、映画や小説の題材としては面白い。
前に紹介したが、小説「チャイルド44」もよかった。スターリン政権下の旧ソ連で、KGBの元になった国家保安省の捜査官をしている主人公が子供を殺す連続殺人犯を追う話だ。逆恨みを買った部下からあらぬスパイ容疑をかけられ、主人公はどんどん転落していき、ただの警察官として地方に飛ばされてしまう。

旧ソ連の恐ろしい監視社会がうまく描かれている。あらゆる人が日頃からスパイ容疑をかけられぬよう用心して生きていかねばならず、誰かの恨みを買って密告されれば、あとは拷問されてやってもいない罪を吐かされるだけ。逃げ場はない。

このような密告社会は誰もが望まないと思うが、それで成り立っている国がすぐ近くにある。
ひとつは中国で、もうひとつは北朝鮮だ。

中国の役人や政治家は、日頃から足元をすくわれないように生きているが、派閥選択を間違えばすぐに転落してしまう。腐敗一掃の名の下に、目を付けられたら逃げおおせる術はない。元々、中国の役人や政治家はほぼ全員が賄賂を受けており、叩けばいくらでもホコリが出てくる。密告されなくてもターゲットにされたら終わりだが、密告で人生が終わってしまう場合がある。そうならないために、派閥に付き、あれこれ賄賂を上納していくことになるのだろうが、やられるときはやられてしまう。

それでも中国はまだマシだ。北朝鮮はもっと酷い。北朝鮮のルポを読むと、最底辺の一般住民からハイソサエティと言える朝鮮労働党や軍の幹部まで、密告に怯える人ばかりだと分かる。
一般住民であっても、首領さまに逆らう思想を持っているとか、脱北しようとしていると近所の人に密告されたらおしまい。だから、北朝鮮への帰国事業で北朝鮮に戻った在日の連中や、それと結婚した日本人はたいそう苦労しているらしい。差別される立場にあり、すぐに疑われるからだ。
金正恩が出席する会議で居眠りしただけで軍の幹部が処刑される国なのだから、国家反逆の疑いをかけられたら最悪な目に遭うことは想像に難くない。

密告を恐れる状況は北朝鮮のヒエラルキーの上層部までずっと同じだ。本当にスパイならまだしも、疑いをかけられただけで相当酷い目に遭うのだからロクでもない国である。
親族のなかから脱北者でも出ようものなら、一族全員がスパイ容疑をかけられ、労働教化刑などを受けるなどして強制収容所に入れられたりする。
親族が強制収容所に入れられることを思って脱北をためらう北朝鮮の人民は多いし、なにより親族から脱北者やスパイ嫌疑をかけられる者を出さぬよう必死だ。なんせ、疑われたら終わりなのだから。

先週、朝鮮人民軍の兵士が韓国と北朝鮮の軍事境界線を超えて韓国に亡命したというニュースがあった。亡命を試みた北朝鮮の兵士は車を乗り捨てると一目散に走り出し、追手である朝鮮人民軍の兵士が銃を撃ちまくったが、韓国の国連軍兵士に救出された。いくらか被弾したが、手術によって一命はとりとめたという。

亡命したのは24歳の下士官であるが、彼の親族はどうなったのか非常に気になる。板門店の警備に当たる北朝鮮兵には北朝鮮側からすれば亡命の可能性があるため、朝鮮人民軍は家族がある人物を配置したに違いない。家族、親族を思えば軽々しく亡命はできない。
しかし彼は亡命した。正直、自分さえ助かれば家族、親族はどうでもいいのかと思わずにはいられない。親や兄弟は今頃、強制収容所に入れられて拷問されているのではないか。親族は収容所行きは逃れても、監視される立場になり、転落人生が始まるのは間違いない。

逃げる兵士を後ろから撃っていた北朝鮮人民軍の兵士4人も必死だった。逃がせば絶対に罰を受けるだろうし、亡命を手助けしたのではないかとの嫌疑をかけられることになる。死ぬ気で40発ほど撃ち、5発は命中させたが殺すことはできなかった。
案の定、板門店の警備を担当する朝鮮人民軍の警備兵が全員交代させられたという。亡命兵の上官など、一部は責任を取らされて最悪な目に遭うに違いない。

朝鮮人民軍のこのギスギスした感じは映画のテーマとして非常に面白そうだ。上官は部下が亡命しないように神経を尖らせ、脅したりすかしたりする。現場でも兵士たちが互いに監視するヒリヒリするような状況になっているのではないか。
面白そうな話になりそうだが、惜しむらくはハリウッドがアジアを舞台にアジア人がどうこうするような映画はまず作らないことだ。だとすると、韓国が作るくらいしか可能性がないが、韓国映画なんぞ見る気も起きない。あるとしたら、北朝鮮を仮想の国に置き換えての設定だろうか。

誰かよさそうな脚本や小説を書いてくれないだろうか。ストーリーはこうだ。北朝鮮の兵士が軍事境界線を超えて亡命する。なんとか命拾いするが、祖国に残した家族が拷問を受けていると知って苦悩し、北朝鮮に戻ってひとりで軍と戦うという話。ランボーみたいなヤツが主人公になるわけで、ストーリーとしては陳腐であるが、B級映画としてそこそこ楽しめるのではないか。

20171123-1

6月に台湾にひとり旅に行ったとき、台北市になるHALO Cafeというカフェに行ってきた。台北地下鉄の市政府駅から歩いて15分くらいのところにある。

普段カフェなんぞ行かないし、興味もないのだが、そのHALO Cafeというのは台湾の女性タレントである莎莎(鍾欣愉)という人が経営している店で、InstagramやFacebookを見ると毎日のように店に出てケーキ作りなんぞをしているので、興味があったので行ってみた。

HALO Cafeの場所

台湾では台北などの都市部に日本の表参道などにありそうな小洒落たカフェが多くあり、ほかの飲食店などに比べると価格も高めだ。HALO Cafeもそれで、Googleマップのクチコミを見る限りはそれほど悪くもない。

夜の8時過ぎだったためか莎莎本人はおらず、ケーキとアイスコーヒーだけ頼んで店内でくつろいでいた。
の店内で、テーブル席でスマホを見ているオバサンがいた。「なんかどこかで見たことある」と思っていたのだが、誰だか思い出せなかった。しばらくするとそのオバサンが店のカウンターのなかに入って店番をしているので、店の関係者かと思ったところで思い出した。莎莎の母親である。

莎莎は「食尚玩家」という旅番組のホストをしていて、その番組でたまに母親を旅行をしている。「食尚玩家」は放送翌日にYouTubeに番組がアップされるので、それをよく見ている。
私は中国語はなんとなく分かるが、会話がまるっきりできない。台湾人の店員に中国語を使ってもちゃんと伝わらないことが多いので、スマホで「莎莎のお母さんですか?」と書いてテーブルの近くにいたそのオバサンに見せてみたら、そうだと言う。ただ、怪訝そうな顔をしてほかの店員に「この人だれ?」と訊いていて、さっき注文を受けた店員が「日本人よ」と答えたことで事情が分かったようだ。
適当に日本から来たとか話して、帰り際にバイバイと手を振る莎莎の母親に会釈して帰った。

HALO Cafeにはそれほど日本人が来ないようだ。近くに松山文創園区や台北ドームがあるのだが、駅から逆方向なので観光客がわざわざ来るような場所ではないからだろう。
莎莎の店だからという理由で行っている日本人はどのくらいいるのだろうとか、莎莎ファンの日本人はどのくらいいるのだろうかと思った。

その後、1か月ほどしてYouTubeに2010年に放送された「食尚玩家」の動画がアップされた。莎莎と母親が3北海道を旅する内容だ。
その動画のコメント欄に「大家有發現 在火車上找莎莎簽名的是WTO的馬摳斗嗎?」と書かれてある。意味は「みんな見たか。電車で莎莎にサイン貰ってたのはWTOのマコトじゃないか?」だ。

開始から27分40秒ほど

それを見て私も「おぉ」と驚いた。WTOのマコトでは意味が分からないと思うが、WTOというのは台湾で平日夜の帯で放送されている「WTO姐妹會」という台湾在住の外国人がトークをする番組で、その番組に「Makoto」という名前で矢崎誠という日本人がよく出ているのだ。
JR北海道の職員として中国語通訳をしながら莎莎を見つけてサインを貰うというミーハーではあるが、YouTubeなどで台湾のテレビ番組をちゃんと見られなかった7年も前にかなりマニアックである。

調べてみると、JR北海道に入社し、その後台湾に3年ほど出向して帰国したあとの話で、その出向期間中に莎莎のことを知ったようだ。莎莎は「日本で私のことを知っている人がいるとは思わなかった」と言っているが、台湾に住んでいた日本人だからそういうこともあるだろう。
このMakotoなる人は、今では台湾でタレント活動をちょっとだけしつつ、日本や台湾での観光イベントやマスコミ対応などの仕事をしているようだ。この人は別の台湾の旅番組で日本のガイドをしていたのだが、その理由がよく分かった。

【誠亞國際有限公司】代表・スタッフ紹介

ちなみに、Makotoが7年前にJR北海道電車内でサインを貰っていた莎莎は、今年からMakotoが出演する「WTO姐妹會」の司会を務めている。
そんな偶然もあるのかと感心した。それ以上に、台湾の魅力に取り憑かれ、JR北海道を辞めて台湾で仕事を始めたということに感心した。こういう人が、テレビや観光の分野で日本と台湾の架け橋となっているのだろう。

20171122-1

シェイクスピアの格言に「Nothing is more common than the wish to be remarkable.」というものがある。直訳すると「注目されたいと願うことほどありふれた願いはない」というもので、簡潔になるよう意訳すると「非凡を願うことは平凡である」となる。

シェイクスピアの格言だと知られているが、英語版のWikipediaでシェイクスピアを調べると、実際はオリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアの著書「朝食テーブルの独裁者」に出てくるよく似た文章が元であって、シェイクスピアとはなんの関係もないらしい。
この際、元々誰が言い出したものかはどうでもいい。なかなか言い得て妙の格言だと思う。

多くの人が「自分はどこか特別でありたい」と思っている。多くの人が思うのだから、それが平凡なことなのだろう。
非凡でありたいと願う人は、平凡ではない自分を演出するためにいろいろな努力を重ねる。
その典型が漫画家の小林よしのりではなかろうか。

「おぼっちゃまくん」などのギャグ漫画を描いていた漫画家が、いつの間にか漫画を描く論客となった。その主張も左派的な内容から保守派に急展開したかと思えば、「戦争論」を描き上げた頃にアメリカ追従を主張する日本の保守を「ポチ」だと罵倒し、反米保守こそ真の保守だと言うようになった。そのうち、自分こそが真の保守だと言い始めた。
自分はそこらへんの保守とは違うと主張するため、徹底的にアメリカをこき下ろし、安倍首相やその支持者もこき下ろす。山尾志桜里を熱狂的に支持し、先の総選挙では立憲民主党こそ保守だと言い出して応援演説を行った。たしかにそこらへんの保守論壇とは違う。
ついでに、そこらへんのオッサンとは違うところも見せたいため、AKB48のファンで、柏木由紀が推しメンだと公言している。オッサンが頑張っている感がハンパない。

小林よしのりは非凡な保守ではあるが、キャラ付けのために非凡になろうとしている努力ばかりが目立つ。テレビでしょーもない女性タレントがキャラ付けのためにサッカーが好きだとか、広島カープが好きだと急に言い出すのとよく似ている。
「自分には特徴があります」、「自分は普通の人とは違います」という他人のそのようなアピールは、これまでの人生でゲップが出るほど見てきた。

小林よしのりが人と違うことをやればやるほど、段々とキライになってきた。昔は面白いと思ったが、今では食傷気味というのを通り越して胸焼けがするほどだ。

まあ、漫画家やらタレントらが個性を追い求めるのは理解できないこともない。普通の人だとその他大勢に埋没してしまうだけであり、キャラ付けをして目立たないと誰も見てくれない。

しかし、なぜだか分からないが、欧米や日本のように社会が成熟してくると画一化されていることが否定され、一般人まで個性がより大事にされるようになる。まるで人と違うことがいいことであるかのように持て囃される。
人と同じ意見を持つのではなく、異なった意見を持つことがいいことであるかのように言われるし、人と同じ服装をすることがまるで悪であるかのように言われる。つまり、人と違うことが個性であるかのようになっているが、本当にそうなのだろうか。
社会や企業が目指すもののひとつに多様性、ダイバーシティと呼ばれるものがあるが、それほどいいことなのか疑問だ。

今の日本は個性至上主義が溢れているが、真の個性ではない。個性が大事だと言っておきながら、入社式に白いスーツで来たら、あとあと目を付けられることになる。尖った個性ではなく、ほどほどの個性をうわべだけで持て囃しているだけだ。
そういうことが見透かされているから、最近の若者は「個性的」という評価をマイナスで捉える傾向にあるという。個性的=変なやつであり、個性的と言われることを好まない。

にも関わらず、うわべで個性個性と連呼されるせいで、他人とは違い個性を追求することこそがアイデンティティ確立の手段であるかのようになってしまっている。
個性なんぞ、突き詰めようとして追い求めるものではない。個性なんかあってもなくてもいいし、そもそもの話として、個性的かどうかという他人からの評価など気にする必要などない。
強引に個性的になろうとしているヤツほど恥ずかしいものはない。

20171121-1

先週から世間を賑わしている日馬富士暴行事件があらぬ方向へ向かおうとしている。
先輩風を吹かせてモンゴル人力士の後輩である貴ノ岩をボコボコにしたのは日馬富士なのに、どういうわけか貴乃花親方と貴ノ岩への風当たりが強くなってきた。

一部のメディアが日本相撲協会の意向を受けたのか、協会の理事で巡業の責任者でもある貴乃花親方が協会に報告しなかったことが悪いとし、貴乃花親方が協会の八角理事長に責任を取らせて追い落とすために横綱の暴力事件を利用しているとの陰謀論が吹き荒れている。
貴乃花親方への風当たりはきつく、貴ノ岩を休場させたこと、貴乃花親方がなにも語らないことも併せて、なかなかのバッシングを受けている。

貴乃花はいかにも変なヤツであまり好きではないが、このことで貴乃花親方を責めるのはどうかしているように感じる。日本相撲協会という組織のことを考えれば、あとから右往左往させられることを考えれば報告しろということになるが、根本から信用されていないことを協会自体が理解するべきだろう。
よく言われているが、親方の弟子は親方にとって実の息子のようなものであって、自分の息子が学校で暴力を受けたときに学校をすっ飛ばして警察に相談するのも当然だろう。貴乃花は協会の幹部であるので事情は少し異なるが、それでもめちゃくちゃ責めるようなことでもない。
これは、社内の内部告発部門に告発せず、外部機関にいきなり告発した会社員が責められるのとよく似ている。

貴乃花親方と八角理事長はウマが合わないようなので、これを機に協会をどうにかしようとか、理事長に責任を取らせようとしているのかも知れないが、そんなものは実際どうか分からない。日馬富士と貴乃花親方が同じくらい悪いヤツのように一部のメディアで扱われていることに違和感しか感じない。

これについて、立川志らくが情報番組の「ひるおび!」で次のようにコメントをしていた。

【スポーツ報知】立川志らく、日馬富士暴行事件で「一生懸命、被害者を悪くしようとしている」(11/21)

多くのメディアが「貴乃花も相当悪い」という風潮に持っていこうとしているなか、ちゃんとした意見を述べていると思う。昨日のエントリでも書いたが、ものごとはシンプルに考えるべきだ。仮説だらけの陰謀論に持っていく方がどうかしている。

よく喧嘩両成敗などというが、どちらかが一方的に暴力を振るったのであれば、そいつだけが責められるべきである。仮に、殴られた側が言動をしていようとも、殴った方がどう考えても悪い。
ビール瓶で殴ったかどうかが争点になっているが、カラオケ機のリモコンで殴ろうが素手で殴ろうが、貴ノ岩は10針縫う怪我を負った。それをやったのは日馬富士だ。

貴乃花の言動の動機などどうでもいい。事実は明らかだ。日馬富士が貴ノ岩を殴って、貴ノ岩が怪我をしたいうだけ。朝青龍が知人を殴って追放されたのだから、日馬富士も同じような目に遭わせる必要がある。

それにしても恐ろしいのが日本相撲協会だ。幹部らは貴乃花親方への批判を隠そうともせずメディアに話し、白鳳や池坊とかいう評議員会議長の婆さんに日馬富士を擁護させる。あらゆるツテを利用して日馬富士を擁護し、理事長の脅威となり得る貴乃花親方にも問題があると言いふらす。
これだけ見ても、日本相撲協会がめちゃくちゃ陰険な組織であることがよく分かる。外部に漏れたらマズい問題は内々で処理できるようにまずは報告しろと言い、その問題がバレたら全力で火消しをし、誰か別の対象に火を付けてごまかそうとする。
ブラック企業ならぬブラック協会だ。誰がそんな組織を信用するのだろうか。

動機がどうあれ、今回の件は日本相撲協会に反旗を翻すような状態になっている貴乃花親方を応援するほかない。こんなクソ組織はめちゃくちゃにしてやればいいのである。

20171120-1

私は宇宙もののSF映画が非常に好きで、「インターステラー」(2014年・米)や「コンタクト」(1997年・米)が特に好みだ。どちらもハードSFに分類されるほどゴリゴリの科学を前面に出しているが、その一方で家族の結びつきなどスピリチュアルな部分も併せ持っていて、いい内容の映画だ。

「インターステラー」の内容を考案した映画プロデューサーと理論物理学者は、「コンタクト」の原作者であるカール・セーガンの紹介によって引き合わされた。カール・セーガンは天文学者にしてSF作家でもある、科学界の巨人ともいえる人物だ。

カール・セーガンは懐疑主義者でもあり、この世に溢れる霊魂といったオカルトに対する反論を著書で多く行っている。
それに近いことが「コンタクト」のなかでもあって、天文学者である主人公のエリーは徹底した実証主義で、存在が証明されない神は信じないとして無神論者として描かれている。
彼女は最終的に、異星人からメッセージを解読して得られた装置を使ってワームホールを移動し、26光年離れた星の異星人とコンタクトを取るが、その18時間は地球時間では僅か1秒であり、地球上の装置ではなにも起きているように見えなかった。
エリーは公聴会で宇宙空間を移動して異星人と接触した旨を主張するが、なんら物証がないことに妄想だと決めつけられ、実証主義である本人もそれを飲まざるを得なくなる。

証拠がないものは事実として認定し得ない。これは常識以外の何ものでもない。エリーは自分がいくら宇宙空間を移動したと主張したところで、その証拠がなければ自分の主張は認められないと分かっていた。証言は事実ではないのである。

それをよく分かっていない国がある。理屈が通じぬ国で、どこぞのババアを連れて来て日本を貶める証言をさせ、「証拠はこのおばあさんたちだ」と平然と口にする。記憶も証言も証拠とはなり得ぬことをまったく理解していない。

カール・セーガンは著書のなかで、証拠がないことを事実として主張する人たちを「ガレージのドラゴン」の話に例えていた。
ある人が自宅のガレージにドラゴンがいると主張する。ところがドラゴンの姿はない。当人に訊くと「ドラゴンは目に見えない」と言う。ならば、ガレージに粉を撒いてドラゴンが歩いている様子を見ようと言うと、「ドラゴンは空を飛んでいる」などと言う。ガレージにドラゴンはいるが、目に見えず、触ることもできない。火を吹いていないので熱くもない。
ドラゴンがいるという人は、存在の証拠を質問するたびに屁理屈をこねてくる。そんなことを言う人にはこう言うしかない。「ドラゴンがいるのは分かったが、これはドラゴンがいないのと何が違うんだ?」

何かの事象があると主張するならば、その証拠を示さねばならない。そうしない限り、それはないのと同じである。

映画では、公聴会で委員のひとりがエリーが劇中に何回か口にした「オッカムの剃刀」の話を持ち出す。「オッカムの剃刀」とは、なにかの説明に際して不必要な仮定は極力取り除くべきというもので、転じてカール・セーガンは「仮説がふたつあるとき、より単純な方を選択せよ」としている。
「異星人が送りつけたメッセージを解読して、傍からは移動したように見えない瞬間移動装置で宇宙空間を移動して異星人に会ってきた」という仮説と、「エリーを金銭的に支援してきた酔狂のカネ持ちが人工衛星から異星人のものに見せかけたメッセージを送りつけ、それに担がれた人物がいた」という仮説のどちらが単純で、真実であるかという問いを突きつけられる。
普通の人の尺度では、宇宙人の瞬間移動装置の設計図を解読して作った装置で宇宙人と接触したという事実より、カネ持ちの変態が世間を担ごうとしたと考える方が単純で、ありそうに思える。
エリーには返す言葉がなかった。

世の中には陰謀論が溢れかえっている。仮説に次ぐ仮説で複雑な陰謀が真実だったことなど滅多にない。世の中は思ったほど複雑ではなく、案外単純なことが多い。「宇宙人からのメッセージ」と「カネ持ちの道楽」ではどちらも陰謀論のようだが、より単純なのは後者だ。実際は、映画では前者の方が正解であるが、後者の方が選ばれるのは仕方がない。
より単純な方を選ぶということは、多くの場面で間違いではない。「オッカムの剃刀」はものごとの真贋を見極めるものではないが、複数ある仮説から何を選択すべきかの判断に役立つ。

例えば、「戦争中に戦地で兵隊相手に売春で稼いでいた女性がいた」という仮説と、「軍隊が人知れず数十万の女性を拉致して兵隊向けの性奴隷にし、戦後は何ひとつ証拠を残さず隠滅した」という仮説があったとして、我々はどちらを選ぶべきか。答えは自明である。

証拠があるものは事実であり、証拠がないものは事実ではない。

ものの真贋を図るとき、この心得だけで十分だ。これで真実が分からないとき、仮説が複数あってどちらかを選ばねばならないならば、より単純な方を選択すれば間違いは少ない。

映画から学べることはいろいろある。

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