生きている中でいろいろこじらせると、仏教にかぶれてしまうことがある。かくいう私もそのひとりで、一時期仏教、とりわけ原始仏教の勉強をしていた。いわゆる「にわか」である。
仏教にかぶれたきっかけは手塚治虫の漫画「ブッダ」だった。コンビニで売られている分厚くてお手頃価格の「ブッダ」を毎月買って読んでいるうちに、ブッダの生涯を描いた漫画でどこが手塚治虫の創作なのか、実際の仏典ではどうなっているのかを知りたくなった。
ブッダの生涯を分かりやすく解説した本が意外と少なかったため、いろいろ読むハメになったおかげでブッダが始めた頃の原始仏教だけはそこそこ詳しくなった。
また、仏教の本によって同じ登場人物でもパーリ語の発音とサンスクリット語の発音、中国に伝わった際の漢字表記がいろいろあってこんがらがってしまうこともよくあった。十大弟子の筆頭は「ブッダ」ではサーリプッタだったが、これはパーリ語の発音だ。サンスクリット語ではシャーリプトラ、中国語で舎利弗(しゃりほつ)。3種類の名前を覚えなければならない。
こうやって原始仏教を知ってしまうと、東南アジアに残る上座部仏教こそが仏教で、チベットから中国を経て日本に伝わった大乗仏教は念仏やらお題目を唱えることで救われるとか、ずいぶんふざけた仏教だと思えてしまう。
原始仏教や上座部仏教は出家して修行に励む人だけが悟りを開いたり救われたりする可能性があり、在家信者はそのお手伝いをするだけで、現世では救われないというドライなところがいい。念仏を唱え、お布施を渡して楽に救われようなんて都合がよすぎる。
手塚治虫の「ブッダ」を読めば分かるが、ブッダは生きるか死ぬかの厳しい修行を否定していた。当時のインドで栄えていた古代ヒンドゥー教であるバラモン教では、厳しい修行を経てこそ解脱への道に繋がるとされていた。
ブッダも一時期厳しい修行を行っていたが、それで死にかけ、スジャータという娘に乳粥をもらって生きながらえ、大きな木の下で瞑想に入って悟りを開いた。悟りを開いてブッダになったわけだが、ここではそういう細かいことはどうでもいい。
ブッダは修行に関し、厳しすぎてもだらけすぎてもいけないと説いた。弦楽器の弦を張りすぎても緩めすぎてもいい音は出ない。この考えを中道という。
仏教では生きること自体が苦であるとされている。人間が抱える根本的な4つの苦しみが生、老、病、死で、さらに愛するものとの分かれ、嫌いな人との出会い、思い通りにならないこと、ものや考え方に執着することを加えて四苦八苦という。
悟りを開くというのは、それらの苦しみから解放されることである。
「ブッダ」を読んだ私なりの解釈で簡単にいうと、悟りを開くことは絶対的な価値観を持つということだと思う。人生が苦しみに満ちているという考えは自分が不幸だからと思うせいであって、自分が不幸と思うのは相対的な比較でしかない。例えば、自分が貧しい、だから不幸だと考えるのは、自分が他の人と比べて収入が少なく、人と比べて自分の欲求を満たせないからだろう。世の中の全員が自分と同じだったら、貧しいとか不幸だとは思わないのではないか。
幸せとか不幸せという一定の状態はこの世の中に存在しない。あるのは、何らかの状態とその状態の比較に過ぎない。
他人と比較せず、絶対的な価値観でものごとを捉えることができれば、悟りを開く道が開けるというものだが、なかなかどうしてそれは難しい。人間はどうしても他と比較せずにはいられない。
私が常々アジアのよその国に行くことを勧めるのは、それらの国と比較することで日本のよさを認知できるようになるからだ。欧米はよく知らないが、アジアのほかの国では悪い面や不便な面が目につくことが多く、それを経験すると「日本はいい国だ」と思えるようになる。下を見て生きていくことはよくないことかも知れないが、人間は他人と比較し、自分が相対的に上にいることを確認することで幸せに思えるものだ。
私を含め、この世の大多数を占める人がそうなっているのだから仕方がない。普通の人は仏教の優れた僧侶のような考え方はできない。
だから、よその国の人間も同じであることは仕方がないと思う。例えば韓国はしきり日本と比較して、OECDで自国は何位で、日本は何位だと報道し、順位で勝てば自国が偉大だと喜び、負ければ「日本に負けるな」と叱咤激励する。
今度の新型コロナウイルス騒動でも、韓国のニュースメディアのNEWS1が「検査の日韓戦で韓国が勝ったとアメリカが報じた」と報道していた。
【Wow! Korea】大量検査VSターゲットを絞った検査、新型肺炎の日韓戦は韓国が勝利=ワシントン・ポスト紙 (2020/03/31)
PCR検査のやり方に勝ち負けがあったとは知らなかったが、韓国の検査手法が日本よりも優れているとアメリカから評価されて嬉しいのだろう。相対評価で日本に勝った。だから韓国は優れていると認識することができる。
比較のために評価するのであれば、何件検査したか、何人の陽性患者をあぶり出せたかといった検査体制よりも、死亡者数で比較するべきだろう。韓国158に対し、日本は56。人口比からすると韓国よりかなり少ないが、韓国では「日本が死者の数をごまかしている」という理由で比較されない。「日本では死んだら24時間で強制的に火葬されられ、正確な死者数が出せない」などと韓国で言われている。
日本では肺炎患者は必ずPCR検査が実施され、肺炎が原因で死んでも必ずPCR検査される。葬儀の場で感染者を出さないためで、死者数はごまかしようがない。まあそれでも、日本が死者数をごまかしているせいで比較に意味がないと思うのであれば、そう思っておけばいい。
代替製品が存在しないという理由で日本のゲーム機やゲームソフトが不買運動の対象とならないように、都合のいいものだけで比較して勝ったと思っておけばいい。
それで韓国が幸せになれるのであれば、邪魔をする必要はない。「PCR検査の数が国の誇り」と思っているのだから、それを裏付ける相対比較を好きにやって幸せになってもよかろう。似たようなことは日本もやっている。
ただし、韓国のタチが悪いのは、自分の中だけで気持ちよくなっておけばいいのに、負かしたと思う相手を腐し、こき下ろさないと気が済まないという性根の悪さだ。
放射能五輪のポスターを作って世界中にばらまいた韓国の市民団体があったが、今度はそれに新型コロナウイルスも付け加えるかも知れない。日本人を嫌な気分にさせてこそ、韓国の喜びが増すのだろう。
世界広しといえども、こんな国は韓国だけではないか。他人と比較するのにとどまらず、相手の地位を下げることに余念がない。
相対評価と勝ち負けに執着している結果であるが、こんな韓国でも仏教は救えるのだろうか。