先週放送された「人志松本のすべらない話」に、生活保護問題の渦中にいる次長課長・河本は出演しなかった。
そのことについて、松本が「今出ても笑えない」などと番組内で語っていた。まあその通りだろう。
今さらどれだけ面白い話をしても、「不正をして母親に生活保護を受給させていたくせに」としか視聴者が感じないのは間違いない。

河本の生活保護問題が盛り上がっていた頃、フジテレビや日本テレビは、吉本興業の意向を受けて、早速「河本は問題ない」との意見を表明していた。
河本は、「万引きがバレたら買えばいいんだろう」という泥棒の主張と同じ方式で、「バレたから生活保護を返す」と主張していた。それで問題ないと即断できるとは、テレビ局の人間はどういう思考回路になっているのかと思った。

だが結局は、河本は徐々にテレビ番組の出演機会を失っているようだ。
テレビ局は、吉本の意向もあるが、収録済みの番組をトバしたくないからそう言っただけかも知れない。

そもそも、河本は芸人としてそれほど面白くなかったのだから、別に出て貰わなくても構わない。
そこらへんは、私が好きだった島田紳助とは違うところだ。

河本が芸人として売れ始めたきっかけは、「人志松本のすべらない話」だった。
深夜にやっていた初回に出演し、「犬のタロ吉」の話を3回もしていた。それや、のちに生活保護を受けることになるオカンの話のインパクトが強く、徐々に注目されるようになった。

別の放送で芸能人が「すべらない話」の感想を述べたとき、「河本さんのタロ吉の話が好きです」などと言っていたヤツがいたと思う。
私には、河本の話のどこらへんが面白い話なのかまったく理解できなかった。むしろ、不快な話であった。

「犬のタロ吉」は、河本が幼少期に飼っていた雑種犬の話だ。
河本が子供のころ、母親の都合で姉とともに引っ越しをしなければならなくなったが、引っ越し先では犬が飼えなかったため、泣く泣く山に捨てることになった。姉は泣きじゃくりながらタロ吉に別れを告げていたのに、山で話されたタロ吉は名残惜しみもせず、ぶわーっと走り去ってしまったという内容だった。

要約すると、引っ越し先で犬が飼えないから、それまで飼っていた犬を山に捨てたという話だ。
私からすると、不快感を覚えるだけである。

「昔だから」で済まされる話ではない。たかだか30年ほど前の話だ。飼えなくなったから犬を捨てるとは、無責任の極みである。
どうせ飼えるような引っ越し先を探したわけでもあるまい。恐らくだが、市営住宅などを引き当てて、そこに越すことになって捨てただけではないのか。

自分の都合で犬や猫を捨てるヤツ、保健所にほいほい持ってくるヤツは、動物を飼うことを一体なんだと思っているのだろうか。
飼っていた金魚をそこらへんの池に放すのと同じ気持ちなんだろうか。

犬や猫を飼うということは、最後まで面倒を見る責任を負うということであって、それを早々に放棄するなんてことがあってはならない。
「手は尽くした」などと言うヤツもいるかも知れないが、どれほど手を尽くしたのかは、想像しなくても大体分かる。大したことなんかやっていないに違いない。

そこらへんに捨てられた犬は、結局は保健所に連れて行かれることになる。保健所に持って行くのと等しい。
保健所では犬や猫を安楽死させない。ガス室に15分入れ、炭酸ガス(二酸化炭素)によって窒息死させ、それを焼却処分するだけである。
たまに体力のある雑種犬などは、15分で死なない場合があるが、瀕死の状態で焼却炉に投げ込まれることになる。

このブログで何度も書いているのだが、犬や猫を気軽に捨てるヤツには、この現実を突きつけるべきであろう。
犬や猫は人間の都合で飼われる動物であるが、飼い主の都合でほいほい殺していい動物ではない。しかも、自分の手を汚さずに、お気軽に殺していいわけがない。

飼っている動物のことを省みない家庭で、無責任に育ったから、河本家では生活保護を搾取しても何とも思わないし、何とかしようと努力もしないのだろう。何とかして、犬を飼い続けようと努力しないのと同じだ。
生活保護は金の問題で済むが、犬は殺されてしまう。

犬が殺されても誰の懐も痛まないから、大した問題じゃないと思う人もいるだろうが、私は守銭奴のように金をせびる人間よりも、動物を気軽に殺してしまう人間の方が問題ではなかろうか。