強迫観念というのは、誰にでもあると思う。それがいきすぎると、強迫性障碍とか、強迫神経症と呼ばれる病気になるが、そこまでは行かなくても、全くないという人はいないんじゃなかろうか。

よくあるのが、潔癖症と、いきすぎた確認行為である。
潔癖症はいちいち説明する必要もなかろう。
確認行為は、火の元や戸締まりが気になって仕方がないというものだ。

私の場合、嫁さんが旅行や帰省で家にいないとき、ひとりで家に寝泊まりし、出勤することになるのだが、家を出たときに、電気が大丈夫かが気になる。
我が家はオール電化なので、ガスはないのだが、家電の電源を不用意に入れっぱなしにしておくと、ごくごく稀に熱を持ったりすることがあって、火事に至る場合がある。
そんなこと、日本の一流メーカの家電であれば、ビルの上から落ちてきた植木鉢に当たって死ぬくらい滅多に起きないことなのだが、HDDレコーダの主電源を落としたか、電源を入れる必要のない家電のコンセントは抜いたか、気になるのである。

ただ私の場合は、家を出てすぐ気になるが、1時間もすれば忘れてしまうのだが。

この程度の強迫観念であれば、何ら生活に困ることがなく、何でもいいかと思ってしまう。
だが、それがいきすぎてしまうとどうだろうか。強迫観念に振り回される状態になると、とてもじゃないがマトモな生活など送れなくなるだろう。

かなり前の話だが、高校生の時分に、京都駅前のアバンティの近くにあった駿台予備校に夏休みの間だけ通っていた。
そのとき、京都駅からアバンティ方面の地下に降りる階段のところで、上ったり下りたりする女の人をよく見かけた。

私はマンウォッチングが好きなので、しばらくその女性を眺めていたのだが、どうも、階段を上り始める足と、上り終える足が決まっているようで、階段の段数が合わないと気に入らないので、上り直したりしているらしかった。
階段の段数は何度上っても変わらないわけだが、そこは本人の決まりみたいなものがあって、10分ほど何度もやり直して、ようやく納得して階段を上り終えていた。

階段に出くわす度にそんなことをしていていては、これまでの人生で、階段の上り下りでさぞムダな時間を使ったことだろう。階段だけではなく、もっとほかにも強迫観念にかられた行動をしているに違いない。
私が見た女性は、その後の何十年の人生、ずっと時間をムダに使い続けるのであろうか。

ムダだと思っていても、やらずにはいられないという強迫観念に駆られる人物の代表として、プラスマイナスの岩橋という芸人が挙げられるだろう。
プラスマイナスは、そこそこ売れているし、「セボン」のCMにも出ているから知っている人も多いかも知れない。

岩橋は頭に浮かんだやってはいけないことをやってしまうという性分で、数々のお笑い番組で、その奇行が数多く伝えられている。
例えば、女性器の俗称を言ってはいけないと思いながら、家族との食卓で大声で叫んだり、ラジオの生本番で、リスナーに分からないようにさりげなく言ってみたりしている。
買ってきたCDを、折り曲げてはいけないと思いながら、開けてすぐに折ってしまったりもした。

どう考えても普通ではなく、病気と呼ばれても仕方がないのだが、岩橋はその強迫観念に基づく衝動の回避行動をいつも取っている。
手の甲でアゴを打ち鳴らすとか、ボディビルダーのようなポーズを取りながら「ヘミングウェイ」と叫んだり、腕を組んで足を伸ばして突然座り、「ギューン」と言うなどの行為である。

ここまで来ると異常で、とてもじゃないが普通の社会人としてはやっていけないだろう。
だが、岩橋は芸人であるのだ。芸人だと、そうやっても笑えるし、実際に岩橋は逆転の発想で、それをテレビで前面に押し出している。

岩橋は自分が「やってはいけないことをやってしまう性格」と前置きし、その回避行動のためにヘンなことをいろいろやってしまうと説明した上で、滑稽にしか見えない行動をいろいろやってみせる。
それがめちゃくちゃ面白いのだ。

はっきり言って、岩橋レベルの強迫観念になると相当深刻であると思われるが、本人がそれを前向きに捉え、逆に自分の特徴として活かしているのである。
それは素晴らしいことだと思う。

2009年9月9日の産経新聞朝刊に、曽野綾子氏がコラム「透明な歳月の光」で個人の特徴ともなる病気の話を書いていて、私はその内容に心を打たれた。
曽野氏は、次のように書いていた。

 

人間には多分、治す必要がない、というか、治してしまったらその人でなくなるという病気のような特徴がたくさんあるのであろう。私たちは、それと腐れ縁で仲良く付き合って生きていけばいいらしい。幸いにも私はスポーツ選手ではないから息切れしてもいい。小説は剛胆な人でも書けるのだろうが、恥ずかしいほどの小心な性格でも悲しい人生を書くことは可能だ。

自分らしい欠点は誰でも残しておけばいいのである。それが私が私たる所以だと自覚すれば自然になれる。その性格を利用して私たちは仕事をすればいい。いや、それどころか、その特徴がなかったら、私たちは存在の理由さえ失うと思えば、自分にも他人にも寛大になれるのである。


これは、まさに岩橋にピッタリの言葉である。
岩橋自身、自分が病気だと思っているのかどうかは知らないが、端から見ればリッパな病気だろう。

だが、岩橋は強迫観念を自分のアイデンティティとしてテレビに出演し、人々を笑わせている。
本人がどう思っているかは知らないが、私は岩橋が面白いと思うし、そしてスゴイとも思う。