オバマ大統領のノーベル平和賞を受けてかどうかは知らないが、時期を同じくして広島市と長崎市が突如、共同開催で2020年の夏季五輪招致に名乗りを上げた。県にも国にも一切報告なく、見切り発車で走り出した感がある。

そもそも、IOC自体が五輪憲章で複数都市での共同開催を認めておらず、IOCのお偉いさんも共催を否定しているのだが、広島と長崎の両市長はあくまでも強気だ。
その裏には、自分たちの都市は唯一の被爆都市だというある種の傲慢さが見え隠れしている。

「どんなルールがあろうとも、俺たちは被害者なんだから意見を通せるはず」
「被爆都市が訴える平和を誰が無視できようか」

要するにこういう考え方だ。これを傲慢といわずして何と言おう。

昨日も書いたが、最近は弱者を持ち出せば何でも意見が通るような社会的風潮がある。そんなアホな風潮があるのは主に日本だろう。広島と長崎の両市長の傲慢さは世界中の人々に見透かされ、うるさく思われるに違いない。

平和の大切さを訴えることや、核兵器を使ったアメリカの非道を世界中に問いかけることは大切かも知れないが、それはオリンピックというスポーツの晴れ舞台でやることなんだろうか。いちいち暑苦しいし、いくら今のオリンピックが政治的になってしまったとはいえ、そこまで政治や思想といったものを持ち出していいものか。
ことあるごとに核や戦争の悲惨さを訴えられるオリンピックなど興醒めである。オリンピックは、本来は純粋に最高峰のスポーツを楽しむものだろうが。

だが、そんなことも広島や長崎の一部の連中には全く通用しないのだろう。自らを無謬野存在と考え、被害者の意見は免罪符になると信じているようなヤツらは視野狭窄に陥っていて、ほかの人からどのように思われているかなど全く気にならない。自分たちが正しいと思うことだけをやればいいと思っているのだ。

被害者の意見には耳を傾けなければならないが、被害者は絶対的な存在ではない。しかし、その被害者を利用して、絶対的な存在に祭り上げ、利用しようとするヤツらがいる。実に白々しいことではあるが、社会では平然とそれがまかり通っている。

被害者やら"社会的弱者"やらを利用した傲慢な振る舞いは、主にサヨク連中に見られることであるが、保守の側にも一部それが見られる。

例えば、拉致事件のことだ。拉致被害者やその家族があまりにも絶対視されていて、反対意見を挟む隙間もない。北朝鮮は断じて許されないし、拉致被害者は総力を挙げて奪還せねばならないが、拉致被害者家族やその支援団体に稀にある、おかしな意見に対して何も言えないのはおかしい。
これでは、部落解放同盟に何も言えないように、実に息苦しい状況になってしまう。それではいけないだろう。

この世の中は、何だって言えるようになるべきだ。だから、広島や長崎が傲慢なことを言ってもいいが、逆に「調子に乗るな」とそれをたしなめる意見がもっと出ていいと思う。被爆都市だからと言って遠慮することはなかろう。何も、被害者やその関係者は絶対ではないのだから。